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澁澤龍彦『スクリーンの夢魔』その10 ◆カトリーヌ・ドヌーヴ その不思議な魅力◆

今でも美しいカトリーヌ・ドヌーヴ。
『反撥』で見せた思春期の危うさや、『昼顔』での妖しい色っぽさにKOされつつ『驢馬と王女』での輝くばかりの美しさに驚き『ロシュフォールの恋人たち』での明るい可愛さにまたビックリでした。
これらが同じ女優さんとは!
澁澤は、そんな彼女の事を、実に的確に表現しています。
ちょっと長い引用になりますが。

たしかにドヌーヴのエロティシズムは、いつも隠微であって、容易に表面に姿をあらわさぬ、どちらかといえば陰性のものであるといえよう。ひたすら恋に生き恋に死ぬ、奔放な激情的な性格や、無邪気な快活さや、可愛い女の陽気さや明るさは、女優としてのドヌーヴの性格の本質的なものでは到底あり得ない。さらにまた、生活に対する真剣さとか、意志の強さとか知性といったようなものも、彼女の個性のなかにはまったく見られない。私が前に、ある雑誌に、ドヌーヴの魅力を「デカダンスの味」と書いたことがあるのも、こうした彼女の性格のどことなく投げやりなところ、何を考えているのかよく解らぬ、受身な、自堕落な、頽廃的なところを強調したかったからなのである。
 もしかしたら、この私の意見には、『反撥』や『悪徳の栄え』や『昼顔』や『哀しみのトリスターナ』のヒロインのイメージが、あまりにも大きな影を落としているのかもしれない。しかし倒錯的なエロティシズムを描くことにかけては当代一流の監督たるポランスキーやブニュエルが目をつけた彼女は、少なくとも、そういう彼女だったにちがいなかろうし、ジャック・ドミーの『ロシュフォールの恋人たち』や『驢馬と王女』のドヌーヴは、監督の手腕によって引き出されたその陽気なところが、むしろ例外的ともいうべき彼女の第二の持ち味なのではなかろうか、と考えられもするのである。


そして、以下のようにも書かれています。

取り澄ました、冷たいブルジョワ女の仮面は、カリトーヌ・ドヌーヴの美貌によく似合うが、私たちがそれを魅力的に感じるのは、不動の冷たさそのもののせいではなく、この冷たい仮面が、いつかは無惨に剥がれるだろうという、危機的な予感にみずから慄えているのが感じられるからなのである。

そして、以下の文は大変おもしろく、にゃるほど! と唸らされたのでありました。

 驢馬の皮を身にまとって城を逃げ出さねばならなくなっても、村中の男女に馬鹿にされても、ちっとも悲しそうな顔を見せないドヌーヴは、隣国の王子様とめでたく結ばれるようになっても、べつだん、それほど嬉しそうな顔を見せないのである。いつも、どうでもいいような顔をしている。そこがドヌーヴの人形的な魅力である。

      


 

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澁澤龍彦『スクリーンの夢魔』その9 ◆恐怖映画への誘い◆その2

この章、吸血鬼の関する言及が多くて嬉しいです。
結局、ストーカーの「ドラキュラ」と、レ・ファニュの「カーミラ」が、その後の吸血鬼映画の方向を大きく決定したもののごとくである。と書かれていますが、カール・ドライヤーの『吸血鬼』もカーミラだったのですね!
再見して原作も再読したいです!

 

 

そしてテレンス・フィッシャー監督、クリストファー・リーの『吸血鬼ドラキュラ』、ロジェ・バディムの『血とバラ』が、何と言っても圧倒的に美しく素晴らしいでしょう!!
ここでもドラキュラが恐怖の対象であるとともに、女たちにとってエロティックの対象でもあると書かれていますが、私がドラキュラを好きな理由もまさにソレでして、是非こちらも御覧下さればと思います。

 

『血と薔薇』(昔は漢字表記だったのですね。漢字の方がずっと素敵!) について書かれている所は当然引用しなければいけないでしょう。って訳で引用です。

注目すべきは、フランスの鬼才ロジェ・バディムが、やはりカラーで撮ったレ・ファニュ原作の『血と薔薇』(一九六〇年) であろう。時代を現代に設定しているが、これも昔ながらの「カーミラ」ものであって、女吸血鬼の同性愛が、舞踏会やら庭園やら仕掛花火やら温室やらといった、夢のように美しい舞台装置のなかで妖しく展開する。そして突然、白黒の超現実的なシーンが挿入されるが、そこでは犠牲者の血だけが効果的に赤いのである。……

それにしても何故DVD出てないんでしょうね。(-_-;)



それから、あの存在にも言及されてました! 引用です。

 モンスター映画によく登場するグロテスクな存在には、一度死んで墓に入り、魔術師の力によって生気を吹きこまれ、ふたたび墓を出てくるといわれる、ヴォードゥー教の「ゾンビ」がある。魂のない、死せるゾンビは魔術師にあやつられ、魔術師の意のままに、生きた人間を襲うのである。

ロメロ以降「ゾンビ」はあのようなものになりましたが、元々はこういうものだったのですね。



 

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澁澤龍彦『スクリーンの夢魔』その8 ◆恐怖映画への誘い◆その1

◆恐怖映画への誘い◆
言及されている映画で観てないものがあると、たちまち観たくてたまらなくなってしまいます。
まずは「カリガリ博士あるいは精神分析のイロニー」の章でもあげられている『怪人カリガリ博士』(戦前の表現派映画ではなく、ロバート・ブロックによる脚色のもの)



↑コレぢゃなくて、こちら ね。

拷問具「鉄の処女」の出てくるショック映画『顔のない殺人鬼』



そして『生血を吸う女』『骸骨面』『ギロチンの二人』『怪人マブーゼの挑戦』



『怪人マブゼ博士』は観ているのですが、それとは違うものなのでしょうか。
・・・と調べてみました~

怪人マブゼ博士(Das Testament des Dr. Mabuse、英題:The Testament of Dr. Mabuse)はフリッツ・ラングが監督した1933年の映画。『ドクトル・マブゼ』と『M』の2作の続編であり、ラング史上2本目のトーキー映画にしてマブゼ博士を悪役にした作品である。

Wikipedia より。



この章もうちょっと続きます。

 

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澁澤龍彦『スクリーンの夢魔』その7 ◆サド映画私見◆

◆サド映画私見◆
おそらく、これが書かれた時には、パゾリーニの『ソドムの市』はまだ出来ていなかったのでしょう。
なので『ソドムの市』に関しては言及がないのが残念なのですが、本当に背筋が凍るようなあの描写は実に見事であったと私は思うのです。



ただ、時代の移し替えに関しては、やはり残念なような気はしていたので、以下の文には共感でした。

 じつのところ、わたしが頭のなかで空想していたサドの世界の映画化は、端的にいえば、かつてアレクサンドル・アストリュック監督が撮ったバルベー・ドールヴィリイ原作の『緋色のカーテン』(日本版タイトル『恋ざんげ』) のような、あるいはルイ・マル監督の傑作『恋人たち』のような、異様に官能的な死の臭いにみちた、調子の高いゴシック的様式美の世界であるべきであった。むろん、サドの小説を映画化するには、いろいろな方法があるだろうけれども、わたしの趣味としては、以上のごとき、十八世紀のエロティシズムの雰囲気をそのまま濃密に再現してみせるような方法に、いちばん期待をかけていた次第なのである。

バルベー・ドールヴィイに関してはレビュー書いてますのでこちらから是非!

 

バディムの『悪徳の栄え』は、未だに観るチャンスに恵まれず。すっっごく観たいのに! 評判がいまいちでも絶対観たい~~!! ジュスティーヌ役がカトリーヌ・ドヌーヴですしね。
ちなみにマルキ・ド・サドの原作の感想はマルキ・ド・サド カテゴリ又はこちらから是非!



そして『恋ざんげ』も観たいですっっっ!! こちら

 

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澁澤龍彦『スクリーンの夢魔』その6 ◆ベルイマン、この禁欲的精神◆

◆ベルイマン、この禁欲的精神◆
澁澤龍彦の見識には唸らせられっぱなしなのでありますが、トーマス・マンの「魔の山」のナフタ教授のセリフを引用してベルイマンを解説している所など、ベルイマン作品への理解が深まります。
ちょっと長い引用になりますが…

 トーマス・マンの長篇『魔の山』に登場する不気味なラテン語学者、ナフタ教授は、中世という観念を知る上に貴重な示唆をあたえてくれる人物であるが、ゴシック期ライン派の「ピエタ」像、――血と汗にまみれ、解剖学的に誇張された手脚を力なく垂れ、どす黒い苦闘の表情を浮かべた木彫のキリスト像――を見て、次のように述べる。すなわち、
「これは何の某というような妙な紳士によって作られた物ではなくて、無名で共同の作品です。それもずっと後期の中世であって、ゴシック、つまり禁欲の象徴です。磔形のキリストを表現するのにロマネスク時代がまだ必要と信じていた手加減や美化、たとえば王冠とか、世俗に対する崇高な凱歌とか、殉教死とかは、この彫刻においては御覧の通り全然もう発見できません。すべてが苦悩と肉体の無力との極端な表現です。本当の懐疑的、禁欲的趣味はゴシック時代になってからのものです」と。
 ゴシックの禁欲主義とは、このように無名で共同的な、神を媒体とした拷問の受苦の歓びをあらわすものであり、それが美術の領域でも、たとえばグリュネワルトなどに見られるごとく、しばしば異常なまでに酸鼻をきわめた、死の醜悪さを誇張する傾向を生じたのである。若いハンス・カストルプ青年に向かって、ナフタ教授はさらに説明する。
「魂の世界や表現の世界から生まれた物は、いつも美しさのあまり醜悪であり、醜悪であるために美しいのです。それが法則です。そういう美は精神美であって、肉体美ではありません。肉体美なんてまったく愚劣です。ただ内面美、宗教的表現美にだけ真実性があります」と。
 この意見は、そっくりそのまま、ベルイマンの芸術にも当てはまるような気がする。ベルイマンの映画には、イタリア映画におけるがごときロマンティックな美男美女など、ひとりとして出てこない。登場するのはすべて、陰翳のある暗い魂の持主ばかりである。病や狂気に侵された、悲惨な肉体の持主さえある。たしかにナフタ教授のいう通り、ここでは「肉体美なんてまったく愚劣」なのだ。ただ苦悩する精神、懐疑する精神、禁欲的な精神のみが、もっぱら「醜悪であるために美しい」のである。
『第七の封印』のなかに、痩せさらばえた黒衣の鞭打教徒たちの、鬼気せまる怖ろしい行列のシーンがあったのをおぼえておられるだろうか。ある者は香を煙らせた壷を下げ、ある者は大きな十字架をかつぎ、ある者は自分で自分の身体に鞭をあて、泣き叫び、祈り、うめき声をあげながら、異様な興奮のうちに村から村へ、よろよろした足どりで練り歩く。中世のマゾヒズムの極地ともいうべき、終末の不安におびえる民衆の狂気のすがたを、ベルイマン監督は見事に描き出していた。


なるほど、ベルイマン作品は鞭身派的であるかもしれないですね。

*「鞭身派」というのは「分離派」の一派であり、分離派に関してはこちらの澁澤本 の他、ドストエフスキーの所で、いろいろ言及しています。
こちらから是非~

そして次の箇所には思わず拍手でした。(笑)

 彼が決して観念臭芬々たる前衛的な手法を用いないところも、わたしの大いに気に入っている点の一つである。近ごろは、やたらにアンチ・ロマンかぶれの前衛映画がはびこり出し、前衛の価値がすっかり暴落してしまったのは残念な次第だが、それにしても、たとえば、腑抜け男と高慢ちきなブルジョワ女が、ふやけたような恋愛をしているアントニオーニなんぞの世界とくらべてみて、わたしは、どれだけきびしい、男らしい、ベルイマンの世界を愛していることだろう。少なくとも、ここには本当の懐疑的、禁欲的精神があるのだから。

*ベルイマン作品のレビューいろいろ書いてますので、是非スウェーデンのカテゴリあたりから飛んでみてくださいませ。

ベルイマン

 

 

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ハードロックギタリストで作詞作曲家(まだアマチュアだけどな)吉乃黄櫻の読書ブログ。
60~70年代のロック、サイレント~60年代あたりの映画、フランス・ロシア・ドイツなどの古典文学が好きな懐古趣味人。
西武ライオンズファン。
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