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【本】パゾリーニ『テオレマ』その2 2005.1.29

昨日のつづきです~。
映画評はこちら

どーもこの頃の読書感想は、引用中心になってしまい・・・今回特にひどいっすね。(汗) なにより読む方は大変だろうし、書く方も結構大変なので (何が大変って、変換が出ないのですよ~(泣) いまだに「ことえり」使ってるのが悪いんだろーけど…どーしても出なくてインフォシークの漢字辞書で出してコピペしたりしてますですよ。(-_-;))、今度からちと考えよかな、と。
ま、実は2月~3月仕事が大変なので、あんまし余裕がないっつー訳なんだけど。
昔昔に書いた『夜の果ての旅』とかドグマグとか『泥棒日記』とか、引用ゼロでスッキリ (どぐまぐはあんましスッキリはしてないか…) 書いてるぢゃん! こーゆーのに戻していきたいにゃーと。

と言いつつ、また引用です。(爆)

映画では確か最初の部分に来ている (と思ったけど、どうだったけか。違ってたらゴメンナサイ。)、新聞記者のインタビューです。
『テオレマ』って難解で、私もうっすらぼんやりと解ったような気になっているのだけど…この辺の引用から見えてくる部分があると思うのでして。( 傍点が付けられないのが何とも残念! 傍点結構多いのです。昨日の日記の引用分も。)

「ブルジョアに信仰心があるとか、あるいは信じているんだと彼ら自身が信じているとかいうような意味ではなくて……彼らは、聖なるものということのリアルな感情をもっていないという点ですね?」

「道徳至上主義というのが、ブルジョアジーの宗教 (存在するとして) なのですか?」

「つまり、ブルジョアは……魂を意識ととり替えてしまったというのですか?」

「彼女こそは、ブルジョアジー---(せいぜい最良の場合でも) 宗教を行動の規範と化してしまったブルジョアジーにたいする、恐ろしい、生きながらの非難ということにならないでしょうか?」
(この辺、映画を観てないと解らないと思いますが、奇蹟を起こす女中のエミリアの事だと思われます。)

「したがって、現代のような歴史の袋小路のなかにあってさえも、この聖なる百姓娘は救われることができるのにたいして、ブルジョアジーに属するものは、だれ一人、個人としても集団としても、救われることはできないのでしょうか? 個人としても---というのは、ブルジョアにはもはや魂はなく、ただ意識しかない---よしんば、気高いものであるとしても、その本来の性質から、狭い、限られたものである、意識しかもっていないという理由で。また集団としても---というのは、ブルジョアジーの歴史は、初期の工業の歴史から、全世界の完全な工業化の歴史へと変容することによって、今や痕跡さえも残さずに、終りはてようとしている---という理由によって?」

「しかしそれでは、そのときに新たに生まれるであろう (そしてその最初の兆候ははやくも最も先進的な諸国に見られているのであるますが)、そのような新しいタイプの宗教というものは、現在われわれが生きている、このブルジョア的世界、あるいは資本主義世界、あるいは社会主義世界といったこの汚物 (失礼しました) とは何ら関係のないものなのでしょうか?」

「したがって、こういう仮説が立てられるのではないでしょうか? ---たいして奇抜なものではありませんが---つまり、ブルジョアジーはもはや、どのようにしても、自分の運命からは公的にも、私的にも、解放されることができない、そして、たとえどのようなことをブルジョアがおこなっても、必ず間違える---ということです」


果たして、このブルジョア家族全員が、その父性によって癒され救われ、そして置き去りにされて去られていく、テレンス・スタンプ演じる青年は、神なのか?悪魔なのか?





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【本】パゾリーニ『テオレマ』その1 2005.1.28

映画評はこちら

この奇妙な、小説ともシナリオとも言い難い書きもの、ピエル・パオロ・パゾリーニの『テオレマ<定理>』は、映画の原作かと思いきや・・・こりゃ、最初からキャスト想定してねーか・・・とか思いつつ読んでいたら・・・映画の撮影と併行して書き進められたものだそうです。納得。

映画の進行通りに書いてあるのではなく、構成としても、映画では最初に入ってる部分がラストに来てたりして、なかなかおもろいっす。
又、間に挿入される詩のようなもの ( 作者自身、これを<<詩>>と称してなく、訳者が解説で書いている所の「エセ韻文体散文」) が、なかなかの効果をあげています。

ブルジョア家庭の父パオロが、青年にトルストイの『イヴァン・イリッチの死』を読んでもらう所があるんですが、これに出てくる百姓のゲラーシムと、テレンス・スタンプ演じる青年との見事な一致がおもしろいです。

それぞれの独白がこんな感じで書かれていて・・・

<<貴方ガイラッシャルマデ、私ハタダノ普通 (のおまる) ナ
---御免ナサイネ、コノ際限ノナイ言葉ヲ---人タチト暮ラシテ来タノ。
デモ私ハソウジャナカッタノ。私ハ自分デ自分ヲ保護シ
(ソシテ保護サレ) 、コウシテ自分ノツライ
階級病ノ徴候ヲ隠シテイナケレバナラナカッタノ。>>

<<ドウヤッテアンナ空虚ノ中デ生キテイラレタノカシラ? デモ
生キテイタワ。シカモ、ソノ空虚ト言ッタラ、知ラナイウチニ、
月並ミナコトデイッパイダッタンダワ。ツマリ、
救イガタイ精神ノ醜悪サヨ。>>

作者も誰の独白か書いてないのですが…前者は長女オデッタ、後者は母ルチア。
最後には青年のが来るんですよ。
「下層プロレタリアートと神の共謀」と題して。

そして1968年の記述も。
(1968年について、今迄いろいろ考え書いてきました。是非こちらも御覧ください。)

<<一九六八年の若者たちは何を語るのだろうか---
野蛮な髪の毛をして、どことなく軍隊調の
ウィンザー・スタイルの服で、ぼくに似た不幸な体を覆い---
文学、美術を語るのでなければ? そしてこういうことに
何の意味があるだろう---プチ・ブルジョアの
最も隠微な奥底からあの皆殺しのにむかって
祈願するのでなければ---今一度、あの三十八年のときよりも
さらに重大な事態で彼ら自身を罰してくれるようにと。
ただわれわれブルジョアだけにギャングの振舞いができるのだ、
マルクスをひきずりおろして、蚤の市じこみの服を着こんだ
技師が技師にむかって咆えたたえるだけのことしかできないのだ。
まさに同胞相搏つ争い。
齢十六にも達せず、百姓の服を着て、
ほんとうにやつれ死んでしまうものこそ、
恐らくは、たった一人の正しい人間だろう。
ほかのやつらは互いに相手の咽喉を掻き切っている。>>

引用したいと思うとどうしても長くなっちゃいますね・・・
つづきは明日書きます。





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澁澤龍彦のジャン・ジュネ論 (『ブレストの乱暴者』巻末より) 2005.1.25

昨日の日記のつづきです。
澁澤のジュネ作品におけるフロイト的解釈など。

『花のノートルダム』を読んでないのが何とも残念極まりないのでありますが、(サルトルによれば) 主人公ディヴィーヌとはジュネ自身であり、<<ジュネ自身のエロティシズムは、女性的エロティシズム、つまり受動性によって特徴づけられており、つねに自己を容体化しようという方向をとる。>> のだそうで、『ブレストの乱暴者』のなかでは、神話的な母という意味では、リジアーヌ夫人がそうであるが、<<しかしジュネ自身の人格の直接の表現という意味では、むしろ海軍少尉セブロンを思い出すべきであろう。>>との表記には、にゃるほど ! ! と唸らされました。

主役である殺人犯クレルは、殺人を犯してから、すすんで男色家に身を変貌させていくのだけど、それを澁澤曰く<<贖罪>>の行為だとか。

<<犯罪とは、ジュネの確信しているところによれば、未開社会における過度儀礼 (成人式) のごとき一種の儀式であって、犯罪を犯す者は、犯罪のなかで一度死んで復活するのである。復活するためには贖罪、つまり、二度目の死が必要である。彼が犯したばかりの殺人を、いわばそれに対応する、彼自身の身に加えられた一種の死刑執行 (「お釜を掘られる」こと) によって、帳消しにしなければならないのである。>>

次々と周囲の人々と身体の関係を結んでいくクレルは、ちょっと『テオレマ』のテレンス・スタンプみたいな気もするのでした。
全然違うといやー全然違うんだけど。

そのクレルは、自分の罪までジルに着せる事にまんまと成功し、それ以前にも数々の殺人を犯し、金品を奪っているのにもかかわらず、のうのうと追跡から逃れ、生きのびているのです。
これもちと不自然な気がするんですが・・・もしかしたら、ジュネの願望なのかも、とも思いました。
ジュネの愛する人達が、次々と処刑され、或いは道ばたで、或いは目の前で亡くなっていったのだから。
ただ、処刑されるその事も、その人物を高めているというのがジュネ美学なのではなかったか、とも思うのでR。

それにしても、クレルの裏切りは実に鮮やかで見事 ! ! これぞジュネの裏切りの美学の神髄じゃ!

ちなみに私が読んだのは、河出文庫の澁澤龍彦・訳です。
訳は今度は文句ナシです! 流石です! かっちょいっす!

そーいや、バタイユにぼろくそに言われているサルトルですが、(こちらを御参照に) 澁澤はそれなりに評価してるっぽいですね。

我慢して堀口訳の『花のノートルダム』(別訳あれば誰かおせーて) を読んでから、サルトルの『聖ジュネ』を読もうと思ってます。



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ジュネ『ブレストの乱暴者』 2005.1.24

感想の結論から言ってしまうと、実は正直言って・・・イマイチでした。(^^;)
セブロン少尉やリジアーヌ夫人等の独白が多く、退屈な場面が多々ありまして・・・
話にも、ちとムリがあって、リアリティーに欠けるし、どうにも不自然な感じが否めなかったんです。「つくっている」という感じ。

そんな中でも特筆すべき点もありました。
特に、映画的な場面の切り替わりの巧さはなかなかだと思いました。ジュネはこの『ブレストの乱暴者』で、新しい手法を獲得したのではないでしょうか。

私が今迄読んだジュネの小説は、いつもジュネ本人も出ている体験談だった気がするのだけど…これには一切出て来ず。(「筆者は…」という形では出てくるけど) それに、これには女性が登場するですよ! めずらしっすよ!
淫売屋の女主人、リジアーヌ夫人。かなり重要な役なんです。
しかも、男女の情事の場面まであるではないっすかっ! それも1度だけではない!
これはジュネ小説の中では異色と言ってもいいのではないでしょうか。
(ただ『花のノートルダム』を読んでいないんで、何とも言えないのですが…)

退屈と思ってしまった中にも、キラリと光る、ジュネ独特の描写も勿論ありました。
次の文などは、男女、男×男限らず、恋愛や情事の事を実にうまく表わしているのではないでしょうか。

<<快楽が消え去るとき、あなたの心を和らげるやさしい感情、あなたのなかに満ちわたり、あなたを軽くし、あなたのなかに押し入り、あなたを揺蕩わせる肉体の倦怠感、さては厭悪感、そして最後に悲しみ、--そういったものの混った快楽を、ひとはそこから汲み取るのである。>>

次のクレルの描写は、こちらに書いた『薔薇の奇蹟』でのアルカモーヌの描写のような美しさです。

<<その頃、クレルの顔は陽に焼けて、黒いというよりも、金髪の男の顔がつねにそうであるように、金色に輝いていた。どこかのアラビア人の家の庭で、彼は密柑のたわわに実を結んだ五、六本の枝を摘んできたのだった。彼は歩くとき、肩の筋肉をより効果的に動かすために、何も持たずに手ぶらの状態でいるのを好んでいたから、白い上着のV字型の襟に、それらの絵枝を挿していた。密柑の枝は襟から飛び出して、黒い繻子のネクタイの蔭で、クレルの顎に触れんばかりであった。>>

制服についてのこんな記述も。

<<制服というものの独特の楽しさ、慰安を心ゆくまで味わえないのは、いささか残念であった。儀礼的な服装の魔力によって、制服というものは諸君の人格を無にし、深い安らぎのなかに諸君を沈めてくれる効果があるのである。>>

巻末に出ている、訳者・澁澤龍彦のジャン・ジュネ論は実におもしろいです。
社会の最低に生きる人間、モノホンの泥棒作家はジュネに限った事ではなく、それ程めずらしい事ではないらしいです。
例えば、十五世紀の大詩人フランソワ・ヴィヨン、映画『天井桟敷の人々』に出てくる、代書屋の看板を掲げた不敵な殺し屋ラスネエルのモデルとなった泥棒詩人、ピエル・フランソワ・ラスネエルなどなど。



澁澤曰く

<<しかしジャン・ジュネの文学があくまで独自なのは、悪の世界について、泥棒について語るのではなく、サルトルが正しく指摘したように、つねに泥棒として、男色家として語るという点であった。>>

そして、おもしろい事には、澁澤はジュネ作品にフロイト的解釈を試みてます。
・・・とさらにとんでもなく長くなってしまうので、つづきは明日の日記と言う事で。



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ミシュレ『魔女』 第二の書 2005.1.22

こちらの第一の書と合わせてお読みくださいませ。

第二の書は、主にイエズス教会への批判のような感じです。
火刑にしても、拷問にしても、人間ってここまで残酷になれるものなのか・・・と思いますが、それをやった人達は、教会の人達、聖職者なのです。

カール・ドライヤーもミシュレを読んでいたのかしらん……

そのまま映画になるような物凄い話が、次から次へと語られていきます。いやはや、そこまでやるかって感じ。
少女達が神父等の犠牲になっているんです。

そして、<悪魔憑き>の話も出てきます。

1610年、ルイーズ・カポーという少女の話は、まるで『エクソシスト』みたい。(^^;)



<<この娘が五ヵ月にわたって吐き出した罵詈、雑言、威嚇の言葉、それにまたこの娘のお説教からの短い抜粋から成る。(*そういう文書があると言う事) お説教と呼ぶのは、この娘はあらゆる事柄について、秘蹟について、「キリストの敵」に近い見解について、女たちのもろさ等々、等々について説教したからである。そのため、おのれにとりついた悪魔たちの名において、この娘はなんども激怒にかられ、一日に二度あの可愛らしい娘に刑罰を加え、息もつかず、一分たりとも急流のような恐ろしい呪いの言葉をとどめようとはしなかった、ただ、相手の娘が狂乱し、「片足を地獄に置き、」とこの娘自身が言っている--痙攣状態におちいり、敷石を、おのれの両の膝、おのれの体、意識を失ったおのれの頭で叩いたときをのぞけば。>>

<<悪魔祓いたちは娘に向って次のような残忍な質問をあびせたが、こんな質問には彼女より彼ら自身の方がずっと巧みに答えられたはずである。「ベルゼビュブよ、おまえはなぜ自分の親しい友人のことをそんなに悪く言うのか。」--すると娘は次のような恐ろしい言葉で答えたものだ。「人間たちのあいだに裏切り者がいるというのに、なぜ悪霊たちのあいだにそれがいないことがあろう? わたしがゴーフリディといっしょにいるのを感じるとき、わたしは彼のもので、彼の望むことなら何でもしてしまう。でも、あなた方がわたしがそうすることを強いるとき、わたしは彼を裏切り、彼のことを嘲笑してやる。」>>

(ちなみに、ゴーフリディ、ルイーズ、マドレーヌで検索してみた所、このような所を見つけました。勝手にリンク貼ってます。すみましぇん。(^^;))
ちなみに、これを「ルーヴィエの悪魔憑き事件」と言うんですが、こちらのアスモデの所にもチラリと出てきますね。アスモデウス?

次の話は、ボッカッチョの『デカメロン』を彷佛させるよーな…

<<もっともカプチン会の托鉢僧たちは世間をさ迷い歩く生活を送っていたのでたえず女たちと結びつきがあり、そのため彼らはしばしば風紀上の事件を起こしていた。>>

 

1730年、尼僧院のカディエールの話は実に悲惨です・・・
・・・と書いているとキリがないんで(^^;) 読んで頂くしかないんですが。
次の現象は、もしや24人のビリー・ミリガン的現象ではなかろうかと。
あ、この本読んでないんですが (汗) 幼児期にものすごく辛い目にあうと、自分の中にもう1つの人格をつくるって言いますよね。

<<カルメル会士ははっきりと、娘のうちにふたりの人物がいる、若い娘と悪魔とがいることを理解した。前者は正直で、じつにういういしい心の持主でさえあり、ひとから何をされたにしても、無知で、かつてあれほど悩まされたことについても、ごくわずかしか理解していない。>>

 

教会、キリスト教社会への批判として、次の文を引用しておきます。

<<将来このほとんど二千年に及ぶ不思議な夢から覚めることになるとき、そして中世のキリスト教社会を冷静に判断するときになるとき、人びとはそこにとほうもない、世界の歴史に例のないことを認めることであろう。それは、第一に、姦通がここでは制度化しているということであり、姦通は規則的で、公認され、尊重され、歌われ、貴族や市民の文学のすべての記念碑的作品、すべての詩、すべての韻文小噺のうちで讃えられている。第二に、その一方で近親相姦は農奴たちの唯一の自由、真の生活だったからであり、そこでは農奴たちのありのままの姿が示されたのである。>>

これ、最初はお勉強的本なのかと思いきや・・・例え話や実話のショートストーリーがいっぱいつまっていて、なかなか読みやすかったです。
訳者の篠田浩一郎が「解説」で書いてますが、

<<本書をもって歴史書であると同時に一篇の小説 (ロマン) であると言うこともできないことはない。読者は、この作品をたんなる歴史書を読む以外の、ひとりの女の運命をたどる文学作品として読むことができるのだ。>>

まさにその通りなのでR。

 

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ミシュレ『魔女』 第一の書 2005.1.21

これもバタイユの『文学と悪』をきっかけに、読んでみました。
すごい力作!!
中世初期14世紀頃~18世紀頃まで、かなり幅広く描かれています。
女性が虐げられた時代を、そして、その女性を高め、聖なるものとして描いている所は、まさにカール・ドライヤーの映画そのものです。
例えば次の文です。下巻のエピローグですが…

<<女のもつ繊細な器官、この上なく微細な細部にたいする好み、生命にたいするあれほど愛情深い感覚のために、女は観察にもとづくいずれの科学でも、洞察力のある、打ち明け話の聞き手となるべく、招かれるのだ。>>

第一の書では、<悪魔との契約>について、また魔女とは何であったかが語られています。
悪魔との契約に至るまでには、絶望につぐ絶望があるのですね…(ゲーテのファウストは違うみたいだけど…)
一部引用。

<<絶望にまで至るのは、ほとんどの場合、不幸な者ではない。そうではなくて、それは悲惨な者、おのれの悲惨さを完全に自覚しており、それだけいっそうそのことに苦しみ、いかなる償いも求めていない者である。この意味での悲惨な者、それは十四世紀の人間、不可能なものを差し出せと要求される (たとえば年貢を金で払えと) 人間である。>>

上巻 (第一の書) では、ミシュレは、神に対して怒っているようにも思えます。
ここまでに至るまでの神からの救済が一切ないのだから・・・

そして、一般市民が、特に女性がどれだけ虐げられていたかが次々と語られます。
こんな時代もあったのか・・・とちと驚かされます。↓↓↓

<<この社会は残酷であった。権力の座にある者は言っていた。「結婚せよ、」と。ところが社会はこのことをきわめて困難にしていた。--中略--
 長男だけが結婚するのを慣いとしていた。次男坊以下、姉妹は、長男のもとで、長男のために、労働していた。>>

近親相姦についても語られているんですが・・・

<<ランクルはまた、「母親と息子との恋愛から生まれた者だけが、りっぱな魔女である」と主張している。>>

だって!

そして、魔女とは何なのでしょうか?
魔女とは、困っている人達を助けた人達なんです。

下巻の「エピローグ」には次のような文があります。

<<この危険な「魔法使い」こそ、ひとが天使たちは男性か女性かとか、その他の崇高きわまりない問題について議論しているあいだに、もろもろの現実に食いさがり、化学、物理学、さまざまの数学を創造したのである。そうだ、さまざまの数学だ。それらをとり戻さねばならなかった。そうすることは反抗であった。なぜなら、三イコール三と言ったために、火あぶりになったのだから。>>

毒薬も少量を使えば鎮痛剤にもなるし、あらゆる薬として利用できます。あるいは媚薬として。
魔女は医者の元祖みたいなものだったんですよね。
カール・ドライヤーの『怒りの日』に出てくる魔女マテも、そういう人でした。
そして、彼女等は次々と焼かれていったのです。

 

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『嵐が丘』つづきです~ 2005.1.13

※ネタバレいっぱーいです。

昨日の日記に大雑把な感想を書いたんですが、もうちょっといろいろ書きたいと思います。

いい訳と言うのは、語学力&センスだけでなく、作品に対する理解が重要だと思うのです。
私が読んだ新潮文庫の『嵐が丘』の訳者の鴻巣友季子さんの<あとがき>には、私共感しまくりでした。
この小説の魅力の1つとして<笑い>をあげているのはおもしろいと思いました。
んで、私が思うに、なにが笑えるって、語り手でもあるネリーではないでしょうか。
このオバサンがしっかりしてれば、もうちっとマシな展開になったはずなのに~と何度思った事でしょう。
をいをい、気付けよ~とか。(笑)
そして、びみょ~に一般人という感じでしょうか。こういう人は、と言うか、フツーはエドガーみたいな人が好きですよね。
キャサリンは良く思われていないのに、このネリーにいちばん信頼を寄せてしまって、可哀想でした。いっっちばん大切な事をネリーに相談するのだから。
カミュの『異邦人』で裁判の場面、ムルソーを非難する人々の中にネリーはいそうです。(笑)

キャサリンは、(映画しか観てないけど) 『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラを連想させられました。私、スカーレットもレット・バトラーも大好きなんですよ~。



それと、実在人物ですが、カミーユ・クローデルも!





キャサリンは、エドガーとの結婚が間違っている事を心底わかっていたのに、ヒースクリフへの愛の為にエドガーと結婚してしまいます。
次のセリフが全てを表わしてると思います。

「人間の魂がなにで出来ていようと、ヒースクリフとわたしの魂はおなじもの。リントンの魂とは、稲妻が月明かりと違うぐらい、炎が氷と違うぐらい、かけ離れているの」

死にかけているキャサリンと対面したヒースクリフは「ああ、キャシー! 俺の命! こんなこと、どうして耐えられるだろう?」と言います。
そうして激しく抱き合うシーンは、この小説の一番のクライマックスではないでしょうか。

キャシーが亡くなり、「自分の命なしには生きていけない! 自分の魂なしに生きていけるわけがないんだ! 」と言うヒースクリフ。なんという苦しみだろう、と思いました。

終盤で、ヒースクリフがネリーに

「もうちょっとで<俺の天国>に手が届きそうなんだ。だいたい、他人の天国じゃ俺にはなんの有り難みもないし、行きたくもないからな! 」

と言うセリフがあるんですが、前半ではキャサリンがネリーにこんな事を言ってるんです。
ネリーに「天国にいる夢を見た」と語る所です。

「天国はわが家みたいな感じがしなかった。そう云おうとしただけ。だから、地上に帰りたいって、胸も張り裂けんばかりに泣いていたら、天使たちが怒っちゃって、わたしを放り出したの。ヒースの繁る荒野の真ん中によ、この嵐が丘のてっぺんに。わたし、うれしくって泣きながら目を覚ました。」

実は見事なシンメトリーを描いてるんですね~。

それと、笑えると言ったら、キャサリンの子供のキャサリンのいじわるさもですね。
ジョウゼフは最初から最後までおもしろいし。
リントン・ヒースクリフのひ弱さもなかなかです。

思えば、胸くそ悪くなる偽善さと言うのが、この人達にはないのかもしれません。

そして、この小説の映像的な魅力について、訳者は「ずば抜けたカメラワーク」と表現してるのですが、うまいっすね!

この訳者が試みたことが、リントン家の屋敷スラッシュクロス・グレインジに「鶇(つぐみ)の辻」という和訳をつけた事だそうですが、今までの訳では片方だけ横文字だったのですね・・・
「嵐が丘」と「鶇の辻」、いいと思います。



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エミリー・ブロンテ『嵐が丘』 2005.1.12

バタイユの『文学と悪』をきっかけに読み始めた『嵐が丘』
ヒースクリフとキャサリンの魅力にやられてます~。
ちとクサい事言っちゃうと、悪党ヒースクリフは、一生涯一人の人を強く愛したんです。物凄く確かな愛。この同じ魂を持つ者同士の愛は、単なる男女の恋愛を超えた、物凄く強い愛だと思いました。素敵です。

この小説は、恋愛だけでなく、例えば、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』のような、何代かに渡る物語の魅力もあるし、(しかも親の名前を子につけるとゆーややこしさも…『百年の孤独』のややこしさには遠く及びませんが。) 物語の構成の見事さ、映像的な描写、リントン家、アーンショウ家との対比などなど、もうとにかくあらゆる魅力がつまっているんです。



ぐいぐいと惹き付けられて読めちゃいます。
これ、1847年に書かれてるんですよ。すごい。すごすぎる。訳者も書いてますが、

<<すぐれた古典は古びないというが、『嵐が丘』という小説は不朽であるどころか、時代とともにますます新しくなっている。>>

は、まさにその通り。

ココで私、ヘッセの『デミアン』を引用したんですが、ヒースクリフが好きになれたら、ヘッセの『荒野のおおかみ』もイケるかもしれません。
アウトサイダー的な魅力も自分にはとても強く感じられました。


 

あと、ジョウゼフも好きですね~。(笑)

これもまた長くなりそうなんで、詳しい感想は後日(多分明日) 書きたいと思いますです。

ちなみに、新潮文庫、鴻巣友季子・訳で読みました。1963年生まれの若い方ですね。2003年の訳なので新しいです。違和感なく読みやすかったです。



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ジャン・ジュネ『薔薇の奇蹟』 2005.1.6

ふう。やっと読み終わったです。
堀口大學の訳がとにかく読みにくいのなんのって。早く読んじゃいたいのに進まず・・・どーも意識があちこち飛んでしまいまして。洋物よく読む自分にとっては、訳ってほんと重要なんですよ。「ですます」調が嫌だし、会話での一人称が「おいら」と「わし」。違和感ありありでした。(^^;)

そんな中でも、ジュネ独特の美学、リアルで生々しい迫力は伝わってきます。なんせ刑務所で書かれたノンフィクションですからね。私達の知らない世界が、常に死と隣り合わせの世界が、生々しく描かれていると思います。
バタイユが<霊的交通>と言っている読者との交流。(こちらを御覧くださいませ。) そんなもの、私にはどうでもよく思えます。
ジュネ作品を読んで、どんなに恵まれた生温い平和な世界で生きているかを存分に思い知ればいいと思うんです。
とは言え、この『薔薇の奇蹟』はわりに読者に向けて書かれていると思える部分が多々ありました。例えば次の様な描写です。

<<いつかわたしがそれをつかまえたら、そのときはじめてメトレが何であったかあなたがたにわかっていただけるでしょうか。でもわたしにそれを翻訳することは、あなたがたの内部へわたしの口臭がわたしにとって何であるかをわからせるとおなじほど困難だと思えるのです。>>

こんな風にジュネは私達と会話してるんです。

12才の少女、看守と、2度の殺人を犯すアルカモーヌは、ジュネにとって神格化された存在となります。少女殺害シーンは、ドストエフスキーの『悪霊』のスタヴローギンを連想しちゃいました。
(ドスト『悪霊』を読んだら、ヴィスコンティーの『地獄に堕ちた勇者ども』を観てみると、おおっ! と思いますよん)

 



このアルカモーヌの、ハッとする程美しい姿のシーンがあったので、引用。

<<正午、鈍重で毛深い脚の、真鍮と革の鞍を置いた、尻の大きい駑馬の背に横座りになって、馬腹の左側に両脚をそろえて垂れ、アルカモーヌが、耕地か運搬作業の帰りと見え、大花壇を横切ったものです。横っちょにかむった略帽のへり、耳のわきのところに、左眼を隠すほどに垂れた紫色の眼帯を大胆につけていましたが、なんとこれが、二つの大きなリラの花房でした。>>

花を眼帯にするなんて、とても思い付かないっすよね。

そして、ジュネの負の美学は、ここまで徹底しています。

<<昔、戦争はそれが流血とともに光栄を咲かせるがゆえに美しかったのでした。今日、戦争は苦痛を惨劇を絶望を作り出すがゆえに、よりいっそう美しいのです。戦争はすすり泣く未亡人を、征服者の腕のなかで泣いたり慰められたりする未亡人を作り出します。わたしは自分の最も美しい友人たちを奪った戦争を愛します。>>

『泥棒日記』の感想も、合わせて御覧くださいませ。



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Author:吉乃黄櫻
ハードロックギタリストで作詞作曲家(まだアマチュアだけどな)吉乃黄櫻の読書ブログ。
60~70年代のロック、サイレント~60年代あたりの映画、フランス・ロシア・ドイツなどの古典文学が好きな懐古趣味人。
西武ライオンズファン。
峰不二子、デボラ・ハリー、ウエンディー・O・ウィリアムスが憧れの人!

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