【本】パゾリーニ『テオレマ』その2 2005.1.29
映画評はこちら。
どーもこの頃の読書感想は、引用中心になってしまい・・・今回特にひどいっすね。(汗) なにより読む方は大変だろうし、書く方も結構大変なので (何が大変って、変換が出ないのですよ~(泣) いまだに「ことえり」使ってるのが悪いんだろーけど…どーしても出なくてインフォシークの漢字辞書で出してコピペしたりしてますですよ。(-_-;))、今度からちと考えよかな、と。
ま、実は2月~3月仕事が大変なので、あんまし余裕がないっつー訳なんだけど。
昔昔に書いた『夜の果ての旅』とかドグマグとか『泥棒日記』とか、引用ゼロでスッキリ (どぐまぐはあんましスッキリはしてないか…) 書いてるぢゃん! こーゆーのに戻していきたいにゃーと。
と言いつつ、また引用です。(爆)
映画では確か最初の部分に来ている (と思ったけど、どうだったけか。違ってたらゴメンナサイ。)、新聞記者のインタビューです。
『テオレマ』って難解で、私もうっすらぼんやりと解ったような気になっているのだけど…この辺の引用から見えてくる部分があると思うのでして。( 傍点が付けられないのが何とも残念! 傍点結構多いのです。昨日の日記の引用分も。)
「ブルジョアに信仰心があるとか、あるいは信じているんだと彼ら自身が信じているとかいうような意味ではなくて……彼らは、聖なるものということのリアルな感情をもっていないという点ですね?」
「道徳至上主義というのが、ブルジョアジーの宗教 (存在するとして) なのですか?」
「つまり、ブルジョアは……魂を意識ととり替えてしまったというのですか?」
「彼女こそは、ブルジョアジー---(せいぜい最良の場合でも) 宗教を行動の規範と化してしまったブルジョアジーにたいする、恐ろしい、生きながらの非難ということにならないでしょうか?」
(この辺、映画を観てないと解らないと思いますが、奇蹟を起こす女中のエミリアの事だと思われます。)
「したがって、現代のような歴史の袋小路のなかにあってさえも、この聖なる百姓娘は救われることができるのにたいして、ブルジョアジーに属するものは、だれ一人、個人としても集団としても、救われることはできないのでしょうか? 個人としても---というのは、ブルジョアにはもはや魂はなく、ただ意識しかない---よしんば、気高いものであるとしても、その本来の性質から、狭い、限られたものである、意識しかもっていないという理由で。また集団としても---というのは、ブルジョアジーの歴史は、初期の工業の歴史から、全世界の完全な工業化の歴史へと変容することによって、今や痕跡さえも残さずに、終りはてようとしている---という理由によって?」
「しかしそれでは、そのときに新たに生まれるであろう (そしてその最初の兆候ははやくも最も先進的な諸国に見られているのであるますが)、そのような新しいタイプの宗教というものは、現在われわれが生きている、このブルジョア的世界、あるいは資本主義世界、あるいは社会主義世界といったこの汚物 (失礼しました) とは何ら関係のないものなのでしょうか?」
「したがって、こういう仮説が立てられるのではないでしょうか? ---たいして奇抜なものではありませんが---つまり、ブルジョアジーはもはや、どのようにしても、自分の運命からは公的にも、私的にも、解放されることができない、そして、たとえどのようなことをブルジョアがおこなっても、必ず間違える---ということです」
果たして、このブルジョア家族全員が、その父性によって癒され救われ、そして置き去りにされて去られていく、テレンス・スタンプ演じる青年は、神なのか?悪魔なのか?
クリックよろぴくー。

