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ブコウスキー『パルプ』 2005.2.26

ココのコメントででみ庵さんが、ブレイクが出てくるとゆー
ブレイクの飛翔 とゆー本を紹介してくれました。

これで思い出したのが、私のとっっても愛する飲んだくれ詩人オヤジブコウスキー
の『パルプ』。
これには、私が最も愛する、あのセリーヌが出てくるですよ!!
いやーブッ飛びましたですよ!
楽天ブックスにはないみたい・・・・・・新潮文庫で出てます。
読んでから数年経ってるから、だいぶ忘れてますが(^^;)、はちゃめちゃでクレイジーなハードボイルドコメディーSFと言った感じでしょうか。

セリーヌに関してはこちらを是非!


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ウィリアム・ブレイク『メアリ』 2005.2.23

愛らしいメアリは初めてそこに姿を見せ、
美しい婦人たちの舞踏会に入ってきたとき
若い男たちと娘たちが彼女のまわりに群がる。
そしてこれらがあらゆる口の端にのぼった言葉である。

「一人の天使が天上の国からここへ降りてきている、
でなければもう一度黄金時代が戻ってきたのだ。
彼女の眼はあらゆる輝きわたる光線よりも明るく、
彼女は唇を開く----今こそ五月」

メアリは柔らかな美に包まれ歓びを意識して動き、
快い笑みで夜のすべての喜びを増し、
他の美しい婦人たちにいちどならず顔を赤らめ、
快い愛と美こそが私たちの心労に値すると告白する。

朝になって村びとたちは歓喜とともに起きた、
そして嬉しげに夜の楽しみを繰り返し語った。
そしてメアリも起きて友だちに交じって寛ごうとしたが、
これから先、メアリよ、あなたが友を見ることはもはやあるまい。

ある者は高慢なあの女と言い、ある者は娼婦と呼んだ。
そして彼女が通りすぎると、戸を閉める者もいた。
湿った冷気が彼女を襲い、顔の赤みもすべて消え失せた。
彼女の百合と薔薇は枯れて葉が落ちた。

「おお、なぜ私は他の人と違った顔をして生まれてきたの。
なぜ私は嫉妬深い人たちと同じに生まれてこなかったの。
なぜ天は惜しみない手で私を飾り、
それから私を嫉妬深いこの地上に置いたの。

小羊のように弱く鳩のように穏やかで
嫉妬を起こされないことがキリスト者の愛と呼ばれています。
しかしあなたが嫉妬を起こさせるなら、あなたの美徳は
こんな悪意を弱い者やおとなしい者に植えつけたのですから責められるべきです。

これからは私の美しさを貶め、綺麗なものは着ません。
舞踏会にも行きませんし、眼も輝かせません。
もしだれかの恋人が私のせいで、彼女を捨てるなら
私はその男に私の手を拒み、嫉妬をうけないようにします」

質素で地味な身なりをして朝に彼女は出かけて行った。
「高慢なメアリは気が狂った」と街の子が言った。
質素で地味な身なりで朝に彼女は出かけて行った。
そして夕方帰ってきた、泥をはねかけられて。

彼女は震えて泣きながらベッドの端に腰かけ、
夜であるのを忘れ、震えて泣いた。
夜であるのを忘れ、朝であるのを忘れ、
彼女の柔らかな記憶に嘲りの顔が刻みこまれた。

軽蔑の顔また顔、侮蔑の眼また眼が
まるで邪悪な悪魔のようにメアリの優しい頭に住みついた。
彼女は神の似姿のような顔をひとつも思い出せない。
すべての顔は嫉妬をもつ、メアリよ、あなたの顔のほかは。

あなたの顔は絶望している美しい愛の顔、
あなたの顔は柔らかな悲しみと心労の顔、
あなたの顔は烈しい恐怖と不安の顔、
棺の上に横たえられるまでは決して鎮まることがないだろう。

<< ブレイク詩集 (対訳) 岩波文庫 松島正一編 より>>


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ブレイク詩集巻末略伝より、ブレイクその人について等。 2005.2.22

昨日の日記のつづきです。

ウィリアム・ブレイクと言えば、神秘的な不思議なイメージもあるかと思いますが、少年時代のこんな不思議なエピソードがあります。
ブレイクの父親は、息子を版画家ウィリアム・ライランドのもとに弟子入りさせようとしましたが、ライランドに会ったブレイクは、ライランドには弟子入りしたくないと言ったそうです。
その理由として「お父さん、ぼくはあのひとの顔が嫌いだ。そのうち、あのひとは首を締められて死ぬよ」と言ったとか。
そして、その予言通り、ライランドは12年後、紙幣偽造の罪で絞首台の露と消えることとなったのでした。

ブレイクの青年時代、1789年7月、隣国フランスでフランス革命が起こりました。以下引用。

<<革命当時、ブレイクはロンドンの市中を自由の旗印をかかげて歩き、自らを「自由の少年」と呼び、またロンドン市民が最大の敵意を抱いていたジャコバン派の象徴であった赤い帽子をかぶり、公然と自己の思想を示したりしている。>>

との事。やはりと言うか、真直ぐで正直な、そうとう勇気のある人だったのでしょう。

その2年前の1787年には、最愛の弟ロバートを19歳の若さで亡くしているのですが、病気の弟を看病していたブレイクは、弟の魂が「喜びに手を叩きながら」昇天していくのを見たのだそうです。

そんなブレイクは1827年8月12日に亡くなるのですが、臨終の時のエピソードを。
当時18歳であったジョージ・リッチモンドがパーマーに宛てた手紙より。

「ブレイクは栄光に包まれ、日曜日の午後6時に亡くなった。彼がイエス・キリストを通して救済を求めながら、自分が生涯見たいと思い、そこでは自分が幸せであると述べていた国へと旅立つのだと彼は言った。死ぬ直前の彼の顔は美しかった。彼の眼は輝き、彼は天国で自分が見たものを急に歌い始めた」

ちとくだらない話を。
私、ブレイクはきっとB型にちがいない! と思うですよ。(笑)
ブレイクの血液型まで知っているマニアさんはいらっしゃらないでしょうか。


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対訳 ブレイク詩集 2005.2.21

  無垢の予兆

一粒の砂にも世界を
一輪の野の花にも天国を見、
君の掌のうちに無限を
一時のうちに永遠を握る。


岩波文庫 松島正一・訳で読みました。
「無垢の歌」「経験の歌」他から抜粋された詩集です。
対訳なので横書き。左側に英文が出てます。横書きに抵抗がありましたが、英語はわかんないながらも韻をどう踏んでいるか、詩のリズムがわかるっつーのは、なかなか良いですね。
詩とゆーのは本来なら原語で読まなければ、意味は伝わってもリズムは全く伝わらないですからね。
しかし、訳者はそうとう苦労したようでして・・・日本では漱石が当て字の天才として有名ですが、ウィリアム・ブレイクも、綴りやアポストロフィや句読点などもそうとう変えて書いてるらしいのです。こーゆー所はジョイスと同類ですね。(ジョイスの方がだい~ぶ後の人ですが。ひょっとしてブレイクから影響受けてるかも?)

「無垢の歌」「経験の歌」についてですが、巻末のブレイク略伝によれば、<<タイトル・ページで「無垢」と「経験」とは「人間の魂の相反する二つの状態」と定義した>>とあります。

<<「無垢」とは汚れのない魂の状態である。人間は「無垢」なものとしてこの世に誕生するが、生きていく過程、つまり現実のなかで汚れていく。この過程において、人間は本来の「無垢」を喪失していくが、ブレイクは人間の「無垢」を阻害する場を「経験」と名づけた。>>

とありますが、まさに「無垢の歌」と「経験の歌」は対になっているような詩が多くあります。

そして、ブレイクの詩には、自然、風などや、動物や昆虫がよく出てきますね。

この本の中で特に好きな詩は、P.305の『メアリ』、そしてP.189の『地獄の格言』です。
全文引用したいぐらいだけど、すごく長いので断念。
バタイユの『存在と無』より引用したあの詩は、これには入ってませんでした。

p.129の『人の姿』という詩は、流石なかなか鋭いと思った所が。

だれかを貧しくさせないかぎり
憐れみのあろうはずがない。
みんながわれらのように幸福だったら
慈悲のあろうはずはない。

そしてお互いの恐怖が平和をもたらし、
それでいよいよ自己愛がつのる。

それから残虐が罠をしかけ、
注意深くおとりの餌を広げる。

---後略---


バタイユの『存在と無』の所でちょっとだけ引用した文は、『地獄の格言』に出ています。(P.193)
少し訳違いますけどね。

孔雀の高慢は神の栄光である。
山羊の高慢は神の贈り物である。
獅子の怒りは神の知恵である。
女性の裸体は神の作品である。


『ソング (4) 』の中では、こんなかわいい一節もあります。(P.275)

ぼくは隣人をみな愛す、
 だけど、キティー、だれよりも君を愛す。
ぼくは隣人をいつも愛する、
 だけど君はぼくのすべてだ。


キティーとは、ブレイクの奥さんキャサリンの愛称です。

大変おもしろい、ブレイクのエピソード等に関しては、次回乞う御期待!





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コクトー『大胯びらき』 2005.2.18

*若干のネタバレあり。

私、ジャン・コクトーの映像センスがすっっごく好きなのにもかかわらず、ちょっとだけまがい物っぽい感じが自分の中では漂っていたんです。ごめんなさいっ!
その一因として、絵がとてもピカソに似過ぎ! てのが、ずっと思ってた事なんですが。


そして、この『大胯びらき』。
どことなくモラヴィア風の乾燥した感じが漂い、プルーストの『失われた時をもとめて』の類似もかなり見られるし・・・と思って疑い深く読み進んでいったのですが・・・いやはや、途中からおもしろくてぐいぐい読んだですよ!
やっぱスゴイです、この人は。
比喩など、なんて鋭く適格で美しく粋な表現をするんでしょ!
例えばこんな風に。

ジェルメェヌの返事はジャックの姿そのものの反映であった。それはあたかも、さえぎる物がなければ一条の白い光の束に過ぎない映画が、スクリーンにぶつかって映像を生むようなものであった。

 パリの街で、ことにも一番有害な技術は、魔法の染点 (しみ) 抜きである。それは染点を洗うのではなく、反対に濃くするのである。こうして悪評も人気さえあれば、好い評判と同じくらい有利になる。悪い評判だからといって、あだおろそかにすることはできない。

そして、コクトーは、何歳になっても子供の気持ちを忘れない人だったのではないか、と思います。
まず序盤にこんな一文が出てきます。

 彼の母は、イタリア巡りのおかげで多少放心しているとはいえ、同じ自分の息子を連れて帰って来たものと信じていた。ところが彼女は、違う息子を連れて帰って来たのであった。そしてこの脱皮が行われたのは、まさしく、ヴェニスにおいてである。---中略--- 実際、彼はひからびたある種の皮を、大運河の水に浮かべて棄てて来たのであった。蛇が野薔薇の花に引っかける、口と眼のところに孔のあいた、泡のように軽い、あの脱殻の一種を。

そして中盤、またこのような一文が出てくる所がおもしろいです。

 サーカスで、軽率な母親は、その子供を、支那人の魔術師の実験に提供する。子供は箱の中に入れられる。箱の蓋が開くと、空っぽである。再び箱が閉ざされる。開かれる。すると子供はあらわれ、もとの場所に戻っている。ところで、二度目にあらわれた子供はもう、もとの子供ではない。しかし誰もそれには気がつかない。

全部読んで、やはり『失われた時を求めて』を意識してるんじゃないかな、との感想は変わらず。悪い意味でなく。
ジェルメェヌはアルベルチーヌとかぶります。
女性とからまり寝ている場面を見て、恋人で主人公のジャックがショックを受ける場面には「やっぱり!! 」と思いましたもんね。
そして、終盤に序盤の所が蘇るあたりなど、まさに『失われた…』です!

私が読んだのは、福武文庫の澁澤龍彦・訳です。
解説で出口裕弘さんが、この訳をベタ褒めしているように、私が引用した部分を見て頂いても解ると思いますが、まさに訳が実に実に見事なんです!
しかも、この『大胯びらき』、澁澤がはじめてこの世に送り出した本なんだそうです。この時仏文科の学生で、25歳だったって!! 驚きです。
澁澤龍彦については、是非こちらも御覧くださいませ。



コクトー

*ランキングぐいぐい上がってますっっ! ありがとうございますっっ!
それにしてはカウンターの数字が低すぎなんだが…検索してみたら…FCブログのカウンターって不具合多いの?

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【本】パゾリーニ『アッカットーネ』その2 2005.2.13

昨日セリフのリアルさについて書きましたが、今日はパゾリーニは詩人だなあ、と思った箇所がいくつか。実に美しい描写です。
『狂った夜』より引用。特に <<<明日> はもう>>以下の所。

 宏壮なホール。そこで大勢の人が夜通しでその夜一夜を、生きる歓びの---そして人生そのままの---夜とすることによって愉しんだ、また少くとも愉しんだと信じたのだが、今では完全に虚ろである。 <明日> はもう、午前八時の光とともに、そこにやって来ている---事務所がひらき、太陽が歓びも苦しみも、あるいはどんな意味もなく、冷淡に語りかける時刻。

今度は『アッカットーネ』より引用です。

 彼らは車に乗り、すべての人びとのものであり、まただれのものでもない、あの美しい太陽のもとを出かけていった。

私、1968年について繰り返し書いてきているのですが…
(こちらから飛んでみてくださいませ。)
この本の <訳者あとがき> にも、1968年がポイントになった出来事が書かれていたので、ちょいと長い引用をしたいと思います。

 恐らく、「狂った夜」や「アッカットーネ」の理解とも関連して、明記しておかなければならないことに、現代における暴力とテロリズムの蔓延にたいするパゾリーニの強硬な反対という事実がある。とりわけ、意味深くまた重要と思われるのは、一九六八年三月、ローマで学生のデモが警官隊と激しく衝突して、市街戦さながらの情況をもたらしたとき、学生たちを「ブルジョアの脛っかじり」と非難し、警官を「民衆の子」として庇おうとする発言を行なったことである。このためパゾリーニは左翼各派全陣営からの批判を浴びて、完全な孤立のなかに沈黙を余儀なくされたのだった。しかし、それから十年を経て、<赤い旅団> によるモーロ前首相の誘拐・殺害事件が起きたとき、まだ記憶もなまなましいパゾリーニ自身の悲惨な死と思い合わせて、六八年のあの「支離滅裂」な発言を、最初の警鐘として思い起こした人は少なくなかったはずである。
 それだけではない。七〇年代に入り、左右両極の暴力行為が頻発するなかで、パゾリーニは、ファシスト系新聞の再三にわたる誹謗に答えながら、友人に加えられた襲撃の卑劣さについて語っている。しかし、一九七五年夏、とりわけて残酷で嗜虐的な陵辱殺人事件の犯人の数名の <ブルジョアの子弟> が逮捕され、そのいずれもがファシスト分子であると知れたとき、パゾリーニは新聞報道の紋切り型に抗議して、同様な残忍な暴力事件はもはや <ブルジョア> のみに留まらず、 <民衆> の世界にも見出されること、パゾリーニ自身が <民衆> の街で何度となく危険な経験に遭遇していることを訴えている。事実、彼はその直後にも市中の繁華街で、それも白昼公然と、ファシストと目されるグループの襲撃を受けて負傷したが、もはや彼は事件を告発しようともしなかった。悲鳴にも近い叫びの彼の発言を文字どおりに、率直、真剣に受けとめようとするものはほとんどいなかったからだ。それから数週間を経た十一月二日、パゾリーニの無惨な死のニュースが世界を驚かせたのだった。
 遺作となった映画『サロ---ソドムの百二十日』 (邦題『ソドムの市』) は、権力の強制のもとに腐敗してゆく青春を描き、全篇に作者の嫌悪と絶望をみなぎらせている。また死の直前に執筆された『生の三部作』 (『デカメロン』、『カンタベリー物語』、『アラビアン・ナイト』三篇のシナリオ集) への序文では、性 (セックス) の歓びを肯定したこれらの作品の <廃嫡> を宣言している。


 

読んでくださった方、お疲れさまです。(^^;)
最後に、同じく <訳者あとがき> の次の引用で終りにしたいと思います。

パゾリーニの思想も人柄も、けっして単純なものとは言いきれず、その芸術としばしば唐突と思われる変貌を見せさえする。しかし、言葉やまた映像の美しく鮮明な表現の背後にあって、しばしば見落されがちなものに、 <愛> と <憐れみ (ピエタ) > があることを最後に指摘しておこう。



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【本】パゾリーニ『アッカットーネ』その1 2005.2.12

ぬわんと、図書館にパゾリーニの本があったですよ。普通あるもん?
ハヤカワ文庫。「狂った夜」「アッカットーネ」「イタ公・ねず公」の3作入ってます。

『狂った夜』ですが、これは、別の監督で映画化されています。運良くテレビ放映の時に観ました。
んで、こちらを見てみたら…流石、ちゃんと出てました。
パゾリーニの文学・評論~シナリオ[狂った夜]
マウロ・ボローニ監督だそうです。
んで、上のサイト、私映画もかなり良かったんで、ええ~?! と思って読んでたんですが…後半読んだら、ねーそーでしょ! て感じでした。(笑)
これも『アッカトーネ』も、本そのまんま映画になってる感じでした。読んでて1場面1場面鮮明に思い浮かび、特に『アッカトーネ』はすごい映画だったなーと改めて気付かされました。

どちらも下層階級の話で、『アッカトーネ』はそのままスラム街の人達が出演しているそうです。
これはパゾ監督デビュー作です。そして、フランコ・チッティ。私が最初に観たのは『アポロンの地獄』だっただろうか。ココにも書いてますが、あの目がすごく印象的で、こういう俳優はなかなかいないと思ったのですが、彼もスラム街からパゾリーニがひっぱってきたと知り、納得です。モノホンの迫力だもんね。
彼についてはこちらに詳しい事が出てますです。

彼とニネット・ダヴォリは、まるで悪魔と天使のような、対称的なような、実は同じような、でおもしろいですね。
(前にも書いたけど、ニネット・ダヴォリと新庄、似てると思ふ。)

両作品とも、下層階級の悲惨さ、その迫力、そして米川良夫の訳もいいのかもしれないけど、セリフがすごくリアルで活きていてイイんです!

『狂った夜』のセリフより引用。

「世の中なんてよ、ひでえことばかりよ……戦争だ、争いだ……お互い同士殺し合ってよ……新聞を見てみろ、女房をピストルで射ち殺したやつだの、だれも病院に運んでくれなかったために血まみれになって死んだやつだの、かと思やあ、インドの王子さまと結婚した女だの……何ていうのかな、むこうじゃ……その殿さまってのが、何千万ッて金のかかるお祝いをやっただの、しかもその門の前じゃあ、腹をすかせて凍え死んだやつもいたんだぜ……なぜこんなふうなんだ? なぜ、この世のなかには、こんなひどいでたらめがなきゃあならねえんだ?」

そして、ここからテオレマの下層プロレタリアートのブルジョアジーへの復讐へと繋がっていくのかな。
テオレマに関して私が書いたものはこちらです。是非合わせて御覧くださいませ。
パゾリーニ『テオレマ』
【本】パゾリーニ『テオレマ<定理>』
【本】パゾリーニ『テオレマ<定理>』(昨日のつづきです)

この『テオレマ』で不思議な青年役を実に見事に演じているテレンス・スタンプが、これまためちゃめちゃハマっててびっくりな『コレクター』について、澁澤龍彦は「麻酔薬と自動車さえあれば誰だってやってみたいと思うさ」と書いてるそうです!

例によってまた長くなりましたので(汗) つづきはアスタマニャーナ。







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ジュネ『花のノートルダム』その2 2005.2.6

ちと間があいてしまいましたがこれのつづきです。

ジュネについては、こちらから飛んでいただいたり、バタイユの『文学と悪』のジュネの所も是非見ていただきたいんですが、繰り返し書いてきたように、ジュネ作品の特徴として、読者を「あなたがた」と呼び、突き放す書き方があります。
しかし、この、小説としての処女作『花のノートルダム』では、逆に読者に語りかけ、読者と繋がりを持ちたい気持ちまでも、私には感じられました。
例えば次のような記述です。

<<どんなに犠牲を払っても、私は自分の身の上に戻って、もっと直接的な方法で、打明けた話をしなければいけないのです。この小説を、私は、自分の囚人生活の、置換えを、昇華を、材料にして、作りあげようと思いたったのでしたが、いまのいままでは、私の執念をを、少しも語らずに終るのではないかと、気になります。骨の出るほど、肉を削り落した文章をとは、心がけていますが、私は読者に、自分の独房の奥深いところから、花を、雪白のパンティを、空色のリボンを、美しく添えた小説がお届けしたいのです。私にとって、これ以上に楽しい時間つぶしはないからです。>> 

<<いまディヴィーヌが、三十以上の年齢になっているとう事実を、なんと作者は、ここで説明したらよろしいでしょう? とにかく彼女を、私と同年にする必要があるのです、そうすることで、私の自己を語りたいこの欲求を、鎮めると同時に、せめて読者の一人が、私を感じてくれはしないか、ためしてみたいと思うのです! >>

あらゆる悪の限りをつくしてきたジュネも、殺人だけはしていないのでした。そして、殺人を犯し処刑される男達を神聖化し、繰り返し書いています。次の記述など、ジュネの美学がよく表れてると思います。

<<私は殺人がしてみたいのです。これは先にも一度言ったことです、それも老人などではなく、亜麻色髪の美少年が殺してみたいのです。理由は、殺人犯と被害者とを結びつける、この言葉の絆のおかげで ( なにしろ一方は他方の恩恵によって、存在するわけですから )、自分が、夜となく昼となく、絶望的な悒鬱に呻吟したり、幽霊屋敷のように美貌の幽霊に見舞われたりがしたいと思うからです。>>

そして、私が好きだな、と思った場面がありました。キュラフロアの手作りの灰色のヴァイロリンです。
ジュネの実話なのかどうかわかりませんが、絵本の厚紙表紙と、箒の柄のきれはしと、四本の白い木綿糸を弦にしてつくった灰色のヴァイオリンの話です。

<<製作中に味わった、背中に吐きかけられた痰の緑色の汚辱よりも、なおいっそう激しい、あの侮辱をいままた感じるのでした。それは、ぺちゃんこな、灰色のヴァイオリンでした、長さと幅だけで、厚さのまるでないヴァイオリンでした。響板と柄の上を、四筋の白糸が、幾何学的に、むやみにきっばり走っている、ヴァイオリンの幽霊でした。弓は、彼が自分で、樹皮をとり去った、胡桃の枝でした。>>

*ゴダールカラーで引用してみました。(笑)



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ジュネ『花のノートルダム』その1 2005.2.3

*ネタバレあります*

これの前に詩編がありますが、小説としての処女作だそうです。
んでこの小説は・・・兎に角わかりにくいことこの上ない!

<<すでにお気づきと思いますが、私は、ディヴィーヌの肩には、真偽の差こそあれ、結局自分の運命を、ときにはボロのように、ときには宮廷服のように着せかけているにすぎないのです>>

と書かれているように、主人公であるディヴィーヌはジュネ自身の投影であるのだけど、しかし、語り手である「私」も別にいたりするし…はたまた訳者のあとがきによれば、<<主人公ディヴィーヌはもとより、登場人物のほとんど全部に、作者ジュネの経歴が、心の姿が宿されている。>>そうです。
それだけではないんです。
<おかま>であるディヴィーヌは<彼女>と称され、ディヴィーヌの少年時代であるキュラフロアは<彼>なんですよね~。この辺のややこしさは次第に慣れるにしても、行替えもナシでいきなり違う話に移ってたりするのには閉口しました。

<<ジュネは監守の目を盗んで、この長大編を、囚人作業の袋貼り用に渡される、紙をくすねてその上に書きつづった>>

と、あとがきにもあるので、そういう情況で書かれたものだと考えればやむを得ないのかもしれません。しかし

<<私の話は複雑になり、こんぐらがってきました。まるで幼児のたわごとだという読者のそしりも聞こえてきます。たしかにこれは幼児のたわごとです。囚人はみんな幼児です。そして幼児だけが、くだくだしく、まだるっこしく、そのくせ明快で曖昧な口をきく術を知っています>>

との本文中の記述から、訳者はジュネがわざとくだくだしく、まだるっこしく書いていると判断しているのだけど・・・う~~~ん・・・後半の抽象的な所など、そうも言える部分もあるにはあるのですが。

元々がこう読みにくい小説である上、訳が堀口大學なもんだから、この読みにくさと言ったら拷問ですよ!
難解とかそーゆーのならイイんです。そーゆーたぐいではなく、ただただわかりにくい。読みにくい。
終いにゃとっとと読み終りたいとの気持ちで、文章を目で追うだけとゆー最悪な読み方になってました。(-_-;)

挫折しそうになりつつも、ジュネの自伝的処女作であるし、ジュネ作品の中でもわりに重要な位置にあるとも思ったのと、サルトルの『聖ジュネ』を読む準備の為、どーにかこーにか読み終えたという訳です。
小説としては、はっきし言って、失敗作ではないでしょうか。

とは言え、ジュネの分身であるディヴィーヌの母性的きどりのないやさしさは、他のジュネ作品とは異質のおもしろさがありました。
もしや、あのディヴァインって、ここから名前とったんでしょか?
英語読みでおそらく「ディヴァイン」だと思うんですが。

  

ちなみに、あの恐い恐い『ソドムの市』でのうんこのレシピは高級チョコレート&マーマレードで大変美味に頂いているらしいのですが、ディヴァインの方は『ピンク・フラミンゴ』 でモノホン食ってますからね。(食事中の方ゴメンナサイ)



(『花のノートルダム』にもどり) そのディヴィーヌは、汚物にまみれて死ぬのですが (この辺抽象的です) サルトルの『聖ジュネ』のp.15 に

<<生まれたときから彼は、愛されぬ存在、都合の悪いもの、余計な人間なのだ。彼の存在までも望ましからざるものである彼は、この女の息子なのではなく、その排泄物なのだ。だからジュネは将来、じつに執拗に、被虐的なよろこびをもって、自己を汚物に、屑の産物に比較するであろう。>>

なんて表記もあって、このラストシーンはそういう事なのかな~とか思いました。

またまた長くなりました。つづきは明日か明後日の日記で。



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Author:吉乃黄櫻
ハードロックギタリストで作詞作曲家(まだアマチュアだけどな)吉乃黄櫻の読書ブログ。
60~70年代のロック、サイレント~60年代あたりの映画、フランス・ロシア・ドイツなどの古典文学が好きな懐古趣味人。
西武ライオンズファン。
峰不二子、デボラ・ハリー、ウエンディー・O・ウィリアムスが憧れの人!

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