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『私の嫌いな10の人びと』その4 2007.11.30

◆ルナールの日記◆

「俗物根性を隠すことなくさらけだしていること、しかもそこに自嘲の音をしっかり響かせていること、人生はすべて虚しいということを腹の底まで自覚していること……こういった人生の姿勢がおもしろい」と著者が絶賛して紹介されている、ルナールの日記。
引用された文章は実におもしろかったです!
「ぼくが大目に見ないということを大目に見てくれたまえ。」とか「私は前より少し謙虚になった。しかし、謙虚であることをいっそう鼻にかけるようになった。」とか!「有名でない気軽さ。お辞儀をされないいまいましさ。」(≧▽≦)!「文筆稼業は、何といっても金を儲けなくてもバカに見えないで済む唯一の商売だ。」

ルナール 日記

◆小浜逸郎氏との幻の書簡集◆

著者がメールでのやりとりの後に、だみだこりゃ状態に陥り、幻となった書簡集。
そのやりとりの中で、これはあらゆるやりとりで心がけるようお願いしたいと思った一文を。

どうにかこの書簡のやり取りを最後まで続けたいという意思は変わりませんので、以下次のことに注意してお答えしようと思います。(1) いわゆる水掛け論は避ける。(2) 細かい詮索に基づくあげ足取りはやめる。(3) はぐらかしたり逃げたりはしない。

なんだかネットの論争って、こればっかって気が。(^^;)

小浜逸郎

次回で終わりです。

 

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テーマ : エッセイ/随筆
ジャンル : 本・雑誌

『私の嫌いな10の人びと』その3 2007.11.28

◆みんなの喜ぶ顔が見たい人◆

これまた爆笑&共感ですっっ!以下引用。

「みんなの喜ぶ顔が見られたらそれでいい」「みんなが喜んでくれるだけでうれしい」……こういうせりふをこの国ではなんと頻繁に聞くことでしょう。そして、私はこういうせりふがなんと嫌いなことでしょう。なぜなら、彼らは自分の望みがとても謙虚なものと思っている、という根本的錯覚に陥っておりながら、それに気づいていないからです。「みんなの喜ぶ顔が見たい」とは、なんと尊大な願望でしょうか! その願望は、結局は自分のまわりの環境を自分に好ましいように整えたいからであって、エゴイズムなのです。

さらに・・・

「みんなの喜ぶ顔が見たい人」とは、マジョリティ (多数派) の喜ぶ顔だけが見えて、マイノリティ (少数派) の苦しむ顔が見えない人なのです。

中島義道さんは、基本的に、この日本社会においてのマイノリティ、弱い者の味方なんですね。こういう、一見皆に好かれるが、マイノリティからしてみれば大嫌いな人達の、その本当の姿を暴くのは、実に痛快です。
それから、何故こんな歌が売れるの~~?と当時から理解が出来なかった、さだまさしの「関白宣言」虫酸が走るような嫌な歌です。どこがええの?
歌詞を全文引用したい所ですが、JASRACの事を考えてやめておきますが・・・。
この歌詞について、以下のように書かれています。

ここには、相手がこのすべてを受け入れてくれるに決まっている、とすでに期待してしまっている男の甘えが臭いほど漂う。しかも、将来の妻からのみならず、世間からも微笑をもって迎えられるはずが、とちゃっかり計算済みのずる賢さの臭気が漂います。

 

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テーマ : エッセイ/随筆
ジャンル : 本・雑誌

『私の嫌いな10の人びと』その2 2007.11.23

◆笑顔の絶えない人◆

「いらっしゃいませこんばんはー」と機械的な笑顔で応対する店員に違和感があった私には、おおむね同感です!
ドストエフスキーの『未成年』について言及していたので、これは引用するしかないでしょう!

 ドストエフスキーは『未成年』の中で、笑いについてとても穿った (だが私には正しいと思われる) 考察をしている。

 人が笑うと、たいていは見ていて厭になるものである。笑い顔には、最も多く何か卑下たもの、笑っている本人の品位を落とすようなものがむき出しにされる。……笑いは何よりも誠意を要求する、だが人びとに誠意などはたしてあろうか? 笑いは悪意のないことを要求する、ところが人々が笑うのにはほとんどが悪意からである。(工藤精一郎訳)

 たしかに、大人でもごくまれに無防備で無邪気な笑顔を見せる人がいますが、ほとんどは何がしかの作為が、したがって嫌みが感ぜられる。そう感じないのは、多くの人が自分もみんなと一緒に笑うことにかまけて、あまり他人の笑い顔を観察しないからなのです。そして、ドストエフスキーの結論は、「赤ん坊だけが、完全に美しく笑うことができる」というものですが、これには多くの人が賛同するのではないでしょうか。


 

◆常に感謝の気持ちを忘れない人◆

確かに・・・と思った一文を。

日本昔話よろしく、相手が自分に何も期待しないでただ親切にしてくれるとき、われわれには自然な感謝の気持ちが湧きあがります。しかし、親切な行為の背後に、相手の自己利益や、計算高さや、自己愛や、傲慢や、自分に対する軽蔑や、恩着せがましさや、見返りや、定型的な義務心や……が透けて見えるとき、われわれはとっさに感謝の言葉を呑み込むのです。

そして、そうそう!その通り!と思った一文です。

「感謝の気持ちを忘れない人」の多くが、こちらの意向を足蹴りにしてでも、自分が納得したいがために、世間の慣習どおりのことを貫こうとするのです。

とは言え、本当の意味でお世話になったり、損得勘定なしにしてもらった小さな親切等には、基本的には、やはり感謝という気持ちは持たなければいけないと思うので、このまま受け取って感謝の気持ちを忘れる人になってしまう人が増えるのも怖れてしまうのです。

 

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テーマ : エッセイ/随筆
ジャンル : 本・雑誌

『私の嫌いな10の人びと』その1 2007.11.22

東大卒の哲学者であり、教授である中島義道さんの本です。
以下の10項目にニヤリとしてしまったら、読んでみるしかありましぇんっ!

1 笑顔の絶えない人/2 常に感謝の気持ちを忘れない人/3 みんなの喜ぶ顔が見たい人/4 いつも前向きに生きている人/5 自分の仕事に「誇り」をもっている人/6 「けじめ」を大切にする人/7 喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人/8 物事をはっきり言わない人/9 「おれ、バカだから」と言う人/10 「わが人生に悔いはない」と思っている人

って訳で、図書館で借りてきました。
この10項目を見ると、普通なら好かれる人、理想の人としてあげられる人であり、そこがミソなんですね。特に理想の嫁さんにあげる人が多そう・・・。
一般的に「お手本にしなさい」と言われているような、実は偽善者たちをこき下ろすと言う、実に痛快な本ですっ!
多いに共感もしたのですが、それはちと極端ぢゃねーの?ってのもありました。
例えば、

 私にとっては「車内での携帯電話のご使用はみなさまのご迷惑になりますのでお控えください」という車内放送のほうが、携帯電話より数段「迷惑」なんですが!

なんてのがありましたが、確かに車内放送が過剰で、ひっきりなしで、すっっごく五月蝿い時もあるんですが、携帯電話のマナーは以前はひどかったですよね? 上のよりも、もうちょい具体的に、「優先席付近では電源をお切りください。それ以外ではマナーモードに設定の上、通話はご遠慮ください」ってなアナウンスがよくされてますが、そのお陰で随分マシになりました。ここまで言われてもなおピッピッと音をさせてメールやゲームをやってたりするのもいますけど。
私にとっては、車内放送より携帯電話の方が迷惑です!!
携帯電話以外の事にしても、ここまで常識的なマナーを放送してもらわないと、又、これだけ放送していても出来ない人達がいる事こそが、嘆かわしいと思うのです。
余談ですが、女性専用車両は、例えフルメイクをする人がいても快適そのものです。
寝てる人を起こすように、わざわざスゴイ勢いでドカッと座ったり、1.5人分ぐらいのスペースをぶんどって足を広げて座るオッサン、ほんっっっと勘弁してほしいっす。

次回に続きます。

 

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テーマ : エッセイ/随筆
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T.S.エリオット『エリオット全集1 詩』その2 2007.11.21

さらに読み進み、『コリオラン』という詩を読むと、もしかしたら寺山修司はエリオットの影響が強いのではないか、と思いました。
ライフル銃とカービン銃が五、八〇〇、〇〇〇  機関銃が一〇二、〇〇〇ってのが12行あったり。寺山的じゃないっすか~~。

『わたしが涙で最後にみた眼』という詩がまた、クルツ的に思えました。

  わたしが涙で最後にみた眼
  離別のなかで
  ここ死の王国に
  黄金のまぼろしがあらわれる
  わたしには、眼はみえても涙はみえない
  これがわたしの悲しみ


『岩の合唱』も良かったです。以下引用。

  つぎに、みなさんは荒野をさげすみ、ないがしろにします。
  荒野ははるか南の熱帯地方にあるのではありません、
  荒野は町かどをまわったところにあるだけでなく、
  荒野はみなさんのまぢか、地下鉄のくるまのなかにひしめいています、
  荒野はみなさんの仲間の心のなかにあります。


最後に『ドライ・サルベージェス』より、美しい表現を引用して終ります。

  海の悲鳴は、よく同じ時に聞かれはするが
  別々の声なのだ―索具におこるすすり泣き、
  うなもに砕ける波の脅迫と愛撫、
  みかげ石の歯を打つはるかなとどろく波音、
  そして近づく岬からの悲しい警告、
  これがみな海の声だ、それからうねりにもち上げられ
  家郷をふりむく吹鳴ブイも、かもめも……
  もの言わぬ霧の重さに
  つきならす鐘の
  計るのはわれらの時ならぬ時、ゆうゆうと行く
  底波の打ちならす、時は
  時計の時よりも古く、気づかう女たちの
  数える時よりなお古い――
  寝がてに臥せて、かれらは未来を計る
  過去と未来とをほどき、ほぐし、ほごし
  またつなぎ合わせてみようなどする
  ま夜中と明け方のあいま、過去はことごとく気のまよいで
  未来に未来のない、朝まだき
  時は停りかつ時は終りを知らない
  そしていま在りまた初めから在った底庭が
  鐘を
  鳴らす。


『地獄の黙示録』関連、残るはフレイザーの『金枝篇』ですが、長そうなので躊躇しちゃいました。でもおもしろそうだなー。


荒地・ゲロンチョン増補新装版

 

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テーマ : 詩・想
ジャンル : 小説・文学

T.S.エリオット『エリオット全集1 詩』その1 2007.11.16

『地獄の黙示録』関連その2っつー訳で、コンラッドの『闇の奥』につづき、エリオットの『荒地』も読んでみなければ、とゆー訳で、図書館にあったのがブ厚い全集。
エリオットの詩が全て入っていると言っていい本だとか。
目当ての『荒地』は、さっぱりわからず (汗)、解説を読んだ後に再度読んでみましたが、それでも私のおバカな頭では、わかりましぇん。(泣)
訳注もないんだもんなーと思いつつ読み進むと、いきなり『荒地』自註が出てきます。なんだ早く言ってよ~~って感じ。しかも*印だとか数字の印もナシで、行番号で書いてあるんです。なので探しながら訳注を読むという感じで、不親切この上ないかと・・・。(-_-;)

『荒地』の次に出ていた『うつなる人々』のエピグラフに、
クルツさァ――はぁ死んだだよ
とあるではあーりませんかっっ!
解説によりますと、
「クルツさァ――はぁ死んだだよ」は、コンラッドの小説『闇の奥』に出て来る残酷、狂熱的な象牙商人クルツの死を「噛んで吐き出すように」告げる黒人ボーイのブロークン・イングリッシュであって、ここにはいろいろなニュアンスがあるが、ともかくもこのようなクルツといえども、「うつろなる人々」にとっては、よくも悪しくもひとつの信念を生きた人間だということにはなるのであり、

とあります。
この『うつろなる人々』以降の詩の方が、おもしろかったです。(って『荒地』はわからんからなのですが…(汗))
これの次の『聖灰水曜日』より、なにげに気に入ったのを引用です。

  失われた言葉が失われ、力つきた言葉が力つき
  聞かれない、語られない言葉が
  語られず、聞かれないとしても、
  まだ、語られない言葉があり、聞かれない御言葉、
  言葉のない御言葉、この世のうちの、そして
  この世のための御言葉がある。
  光は闇にかがやいたが、
  御国にさからって、静かでないこの世は、あいかわらず
  静かな御言葉を中心に、逆まいていた。


また長くなったので、次回に続きます。

 

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テーマ : 詩・想
ジャンル : 小説・文学

コンラッド『闇の奥』その3 2007.11.15

誰もが知っている惨い歴史に隠れた、同じレベルの悲惨な歴史が存在しているのですね。
訳注より引用して、終わります。

 二〇〇五年はアウシュビッツ収容所解放六十周年記念の年。ヒトラーとユダヤ人大虐殺というば、物の本を読む人ならば誰もが知っている。しかし、ベルギー国王レオポルド二世とコンゴ人大虐殺を知る人が、世にどれだけいるだろうか? 一九三〇年代から一九四〇年代にかけた七〇〇万から八〇〇万のユダヤ人がヒトラーによって虐殺された。この惨事を記憶するために優に一〇〇を超える大小の建造物が世界中に建てられている。一八九〇年代から一九〇〇年代にかけて六〇〇万から九〇〇万のコンゴ人がレオポルドによって虐殺された。この惨事を記憶するための記念館、記念碑の類いなど、ただの一つもないばかりか、レオポルド二世とその右腕であったアルベール・ティースの銅像が、今もベルギーの首都ブリュッセルの郊外のアフリカ博物館の中に僅かの距離を置いて立っている。ヒトラーとゲーリングの銅像が並び立っているようなものである。規模において等しく、時期的にも二〇数年の隔たりしかない二つの大虐殺についての私たちの「記憶」に、この言語道断の差異があるのは、いったい何を意味するのか?

訳者の藤永氏は、この『闇の奥』について、ブログを用意しているのが紹介されていました。
ひとつひとつが長文で濃いので、あまり読んでないんですが(^^;)、こちらです。



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テーマ : 読書感想文
ジャンル : 小説・文学

コンラッド『闇の奥』その2 2007.11.14

訳注[第2部]というのがありまして、この[第2部]を書いた事の説明文をまず引用します。

 『闇の奥』の日本語訳としては中野好夫訳 (岩波文庫、一九五八年) と岩清水由美子訳 (近代文芸社、二〇〇一年) があり、英語原文テキストとしては朱牟田夏雄註釈 (研究社小英文叢書、一九五三年) がある。私がこの小説の和訳を思い立ち、この訳注[第2部]を用意した直接の動機は、中野、朱牟田両氏のお仕事にかなりの数の誤りを見つけたことにある。

こちらに感想をUPしている、岩波文庫、中野好夫訳。とにかく読み難くて参ったのですが、この訳注[第2部]を読んで、読み難さの訳わかりました!
言っちゃ悪いですが、誤訳以前に、日本語として通じないっすよ。
以下のなんて、まるで意味が変わっちゃってます。(英文も合わせて引用。私は英語はわかりませんが。)

 An act of special creation perhaps.

[中野] おそらくなにか特別任務とでもいうのだろう。

[藤永] 何かを天が造ってくれるのを待っていたのだろう。

日本語としてスッと入ってこない解り難さが、以下の例でよくわかると思います。

 Besides holding hearts together through long periods of separation,it had the effect of making us tolerant of earh other's yarns ― and even convictions.

[中野] お互い長い隔離生活をともにすることから、知らず知らず心と心が結ばれるという以外に、それはまた人々をして、お互いの見聞談に対し――いや、その信念に対してすら――おのずから寛容の心構えを持たせるのだ。

[藤永] お互い長い間の別離の期間を通じて、われわれの心の結びつきを保ってくれただけではなく、お互いの長話に辛抱強く聞き入り――それぞれの物の考え方にもお互いに寛容になる効果を持っていた。

 There was surface-truth enough in these things to save a wiser man.

[中野] なに、これだけでもね、僕など愚人はもちろん、どんな賢人でも救いの数に入れてもらえるだけの表面 (うわべ) の真実には充分だった。

[藤永] こうした事でもには、馬鹿よりましな男であれば何とか救ってもらえるに十分な、表面的な真理があるものだ。

すんません、↑の藤波訳の最初の部分、入力ミスで何かが欠けてると思います。(多分) 本は図書館に返してしまったので、わからずです。(汗汗)
しかし、中野氏も随分と苦しい訳だったようでして、だから、どなたか改訳を、と謙虚に書いていらした訳でして、藤永氏も以下のように書かれています。

一九五〇年代の訳業が今もそのまま一般読者に提供されていることについては、出版社と現役の英文学専門家の怠慢が責められるべきであろう。

次回で終りです。



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テーマ : 読書感想文
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コンラッド『闇の奥』その1 2007.11.12

岩波文庫、中野好夫訳でさっぱり訳のわからなかったコンラッドの『闇の奥』(感想こちら)、藤永茂訳で再読しました。2006年5月刊行なので、おそらくいちばん新しいのではないかと。
いやあ、とっっても読みやすかったです。
立花隆の『解読「地獄の黙示録」』で言及のあった、クルツではなく、カーツが正しいと言うのと、「地獄だ!地獄だ!」の誤訳については、このままで、なんだあ、と思いましたが、訳注で以下のようにありました。

原文では「The horror! horror!」。これは『闇の奥』で最も有名な言葉だ。「恐怖だ! 恐怖だ!」、「恐ろしい! 恐ろしい!」、「恐ろしや! 恐ろしや!」等々と訳せようが、やはり中野好夫氏の名訳「地獄だ! 地獄だ!」に従っておく。日本語の「地獄」は幅広いニュアンスを持っている。クルツが、そしてコンラッドがこの叫びに込めた意味は不分明であり、したがって批評家たちの解釈も実に多種多様、読んでいると何やら空しくなるほどだ。クルツはこれをフランス語で叫んだはずで、恐怖を意味したのではなく、黒人の情人を淫乱女 (古い英語でhore=欲望する者) と呼んだのだとする穿った解釈もある。

あまり筋には関係ないですが、あるある~~!と思った文を。

全くの話、ひとりの男が馬一頭そっくり盗むのは許しておきながら、もう一方の男のほうは、馬の口に付けた端綱に目をやっただけで咎められる、といったところが、この世にはどうもある。えいやっと馬を盗んでしまえ。それでよし。やっちまったからには乗り回したって不都合もなかろう。しかしだ。端綱にチラと目をやるだけでも、やり方が悪けりゃ、慈悲心そのもののような聖者をさえ怒らせてしまうこともあるというわけだ。

次回に続きます。

 

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テーマ : 読書感想文
ジャンル : 小説・文学

漫画『アストロ球団』その2 2007.11.11

とにかく「何故ここまで」なのです。ロッテの監督金田のセリフより引用です。

わからん……先が見えた勝負に なぜや……
なぜ これほどまでに 命をはって 心血をそそがにゃならんのや?!
アストロ球場をわしらから守ることもあるやろうけど
それにしても たかが野球…一試合やないけ
死んでしまえば もともこもないで


鎖骨が折れても、アキレス腱が切れても、やつらはやるんですぜ。
常に傷だらけの球七のセリフが良いです。

不可能なんてえのは自分の可能性に最初から一線ひいてるやつらのいうセリフでえ!

それにしても金田の悪役ぶりには、実名だし、いいのかよをい、と思ってしまいました~後で良い感じになりますが。
実写版のラストは、なんなんだ? って感じだったのですが、漫画を全巻読んで納得でした。
悪役になる巨●に配慮したんですね。じゃあ金田はいいのかよ?って話にもなりますが・・・(実写版でもかなりの悪役ぶり。顔つきから悪役~~)

ビクトリー球団との試合に入ると、ほんっっとにおもしろくてたまらんです。
バットにぬんちゃく使ったり大笑い。その大門に対する球九郎だったかの次のセリフはなかなか良いです。

悲しいもんやで 笑いを忘れ 楽しみを失い うらみとにくしみだけで生きとる男はよ!

わたしゃすっかりアストロにハマッてマイブーム!(←死語?)
風呂で連日応援歌うたってます。
やつらの言葉は「ちくしょー」にドがつくんです。「ドチクショー」これがやけに気に入りました。アストロ用語!

アストロ球団HP

      

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テーマ : 漫画
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漫画『アストロ球団』その1 2007.11.9

電車の中では常に読書な私なのですが、特に帰りの電車で座れると、襲って来る眠気に耐えられずに寝てしまう事が多いです。
が!! この漫画は寝かせてくれましぇんっっ!全く一睡もせずに夢中で読んでしまったですよ。おかげで寝不足~~

とにかく1人1人のキャラが、それぞれにすんごい良い!超人じゃない人も凄いのなんのって!
貸して読んだ同僚が爆笑していたリョウ坂本なんて、実に味があります。
終盤に登場のバロン森にはブラボー!なおもしろさ。ラストのセリフもすんごい最高ですっっ!実写版ではイマイチこの魅力が出てなかった気がします。ローリー寺西にやってほしかった!
球三郎もイマイチ美形じゃなくて不満。球六が漫画ではいちばんかっちょいいと思ったのだけど、実写版は童顔で不満。大門役は合ってたなー。
球一は気合い入っていてすごく良かったし、球七も良かったです!球二も合ってたです。

・・・と漫画に話を戻しまして、同僚も言ってましたが、先見の明があってスゴイです!
70年代の漫画で、開閉式のドーム型球場が出てきますからね!

そして、ドがいくつも付きそうなくらいのド根性。まぢで命がけです。実写版の感想の繰り返しになるので書きませんが。
「何故ここまで!」と・・・。
やはり1回で語りつくせません。って訳で、次回につづきます。

これおもしろそう!
第3章 魔球王『アストロ球団』の謎と真実!!って気ににゃる~~


実写版ドラマの感想こちらです。


      

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テーマ : 漫画
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ポール・ギャリコ『トマシーナ』その2 2007.11.8

虐められる子供よりも虐める子供が病んでいるように、子どもを愛しながらも傷つけ、病気にしてしまう父親の方が、深く病んでいたりするものですが、そんな父マクデューイ獣医の友人である、牧師のペディが、常に冷静に考えて会話をしているんです。
友達を決して見捨てることなく、一神教である神を押し付ける事もないこの牧師には大変好感が持てました。以下引用。

 こんなにもかたくなに自分の欠点や失敗見まいとしている男を目の前にして、いったいどうしたら目をさまさせてやれるのか、さまざまな人間を相手に経験を積んできたペディ牧師も途方にくれるばかりだった。いま真実を突きつけたところで、友だちをひとり失うことになるだけだ。自分と友人の間に横たわるこの越えがたい溝は、必ずしも友人の性格の短所だとは思わない。

とても印象に残った文を。

 運命を形づくるのは、布を織る仕事とよく似ている。その人間の性格、野心、欲、習慣、狭量さ、切なる望み、誠実さ、愛情、憎しみといった長い縦糸を、そこからはけっして逃れることのできぬ素地として、そこに偶然の横糸をからませていく。見ず知らずのもの、友、やましいところのないもの、あるもの、若者、老人といった、他生の縁から借りし糸。たまたま立ち聞きした話、ほんの一瞬早く曲がりすぎた街角、怒りにまかせてぶちまけ、後に悔いる言葉、間に合わなかった手紙、家に忘れ、あるいはどこかに置いてきた持ちもの、何気なく見すごしたささいなこと、相手のかんしゃくといった糸。

河合隼雄さんが解説を書いています。解説から引用です。

 私のところに相談に来る人で、「愛情一杯」に子どもに接しながら、子どもの「たましい」を深く傷つけている人は多い。そのことに気づかぬ親は、「うちの子はおかしいのでは」とか「気が変なのでは」と言ったりする。子どもは何も変ではない。子どものたましいの加害者でありながら平気でいる親こそ、考え直さねばならないのだが。

また、前述した牧師の事で、以下のように書かれています。

 本書では無神論者マクデューイと牧師のペディの対比が明白で、彼らの対話はなかなか興味深い。この対話のみならず、本書には、「神」という語が何度も出てくる。ペディはキリスト教の牧師である。にもかかわらず、本書で論じられる神は―――エジプトの神猫の出現にも示されているとおり―――一神教にも多神教にも通じるような存在として提示されている。したがって、特定の宗教に限定されるのではなく、ここに述べられる「神」は、たましいのこととして読むとわかりやすい、と私は思っている。



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ポール・ギャリコ『トマシーナ』その1 2007.11.6

河合隼雄さんの『猫だましい』を読んでから、どうにも読んでみたくてたまらなくなった、この本。
いやはや、すんごいおもしろかったです!!
構成の見事さもさることながら、現実的に充分あり得る父と娘の問題、深い深~~い内面の苦しみ、孤独、人間社会のことなどなど、実に鋭い視点で描かれているんです。
そして、猫が間に入り、父も娘も成長する所がとっってもおもしろいです。
そして、「いかれた魔女」と呼ばれる、やさしい女性ローリ。
孤独な傷ついた森の動物たちを世話する彼女は、きっと自分との共通点を感じずにはいられないのではないでしょうか。
人に飼われ、かわいがられ、世話されているペットとの相違にハッとさせられます。
それらが、ユーモア溢れる文章で語られていきます。
次の文なんて!(≧▽≦)

 ほっそりとした女なら、たとえ悲しみに打ちひしがれても、身を切るような悲嘆や苦悩にふさわしい顔つきやたたずまいをもともと備えているが、でっぷりした女が悲しむ眺めは、胸が痛むほどの趣もない。小さな唇は悲劇の女らしく悲しみにゆがむこともできないまま、すぼまって震えているばかり。悲しみにくれたとき人はうなだれるものなのに、贅肉が邪魔になってうつむくことさえままならず、ただその丸々とした身体から生気が失せてしまったかのように、肌の色がすっと蒼ざめるだけ。

この前、名作動物映画『三匹荒野へ行く』を観たのですが (感想こちら) シャム猫のテーオと仲良しになるのは、やはり女の子なのですね。



猫と女の子というのは、絵になるんですよね。
この物語は、間に猫のトマシーナの語りが入るという、おもしろい手法で描かれています。
いつも下手な抱っこをされたり、嫌な思いをしていながらも、何故その家にとどまっていたかを、トマシーナはこんな風に話しています。

 女の子と猫とはいろんな意味で似ていなくもないから、それが理由だったのかもしれません。幼い女の子には、どこかたまらなく謎めいたところがあるでしょ。何かしら秘密を知っていそうな雰囲気とか、まるでもの思いにふけっているような、どこかそっけない目つきで人をじっと見つめ、大人たちを当惑させたり、いらだたせたりするところなんか、あたしたち猫と同じよね。
 女の子といっしょに暮らしたことがあれば、あの子たちが自分だけの世界に静かに閉じこもる、あの腹立たしいやりくちや、理屈の通らない指図や禁止をものともしない、特有の頑固な独立心には憶えがあるはず。相手をいらだたせるそんな気質はさせられないし、愛情を強いることもできません。そこが、メアリ・ルーとあたしの共通点だったのね。


いやあ、見事な少女分析!!
途中から、トマシーナの語りは、猫の女神バスト・ラーの語りになるのですが、次の文などは、『吾輩は猫である』の猫の視線を思い起こします。



 そしてまた、心の奥底より、人間たちを憐れむこともある。
 かくも偉大でありながら、かくも卑小な存在。すべてを手の内に納めながら、何ひとつ自由にならず、征服者として地上を闊歩しながら、一瞬たりとも怖れから逃げられぬとは、どれほどつらい生涯であろうことか。


この辺にしておきますか。次回につづきます。



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テーマ : 読書感想文
ジャンル : 小説・文学

コンラッド『闇の奥』 2007.11.5

『地獄の黙示録』の原作です。
『地獄の黙示録 特別完全版』
<映画の見方> がわかる本 その5◆地獄の黙示録◆
『フリッカー、あるいは映画の魔』

岩波文庫の中野好夫訳で読んだのですが、もうとにかく読みにくいのなんのって!
なかなか進まずでした。
本人もこう書いてるんですね。

 先にも書いたように、コンラッドは、フローベルのスタイルに私淑するところ深く、いわゆる「適確なる言葉」は彼にもまた理想であったらしい。そうしたスタイルは、この一篇にも、しばしば象徴的な雄勁さと簡潔さをもって現わされているのだが、訳文においてははなはだしく叙述的、説明的とならざるをえなかった。その意味で、たとえ誤訳を最小限に防ぎえても、なお出来としては決して満足とはいえないようである。もし原文の象徴的簡潔さを生かして、しかも達意の日本文に自信ある訳者があれば、改訳していただきたい。

是非立花隆さんに改訳していただきたいです。忙しくて無理かなあ。
*この後、藤永茂訳で読み直しました。↓↓↓こちらで読む方をオススメします。こちらの感想もUP予定です。



ビックリなのは、これはだいたいは実話なのだそうです。以下、あとがきより引用です。

 材料は多分に自伝的である。一八九〇年例のリビングストン、スタンリー等の探検でアフリカがにわかに世界的話題の中心になると、三十三歳まだ活気ウツボツたる青年船長コンラッドは、みずから運動して、パリにあった「コンゴー上流開拓会社」というののコンゴー河汽船の船長になった。開発を名として、象牙採集で土人たちを搾取する会社であったことは、作品の通り。彼が赴任したのは同年の五月だということだが、たまたま奥地代理人のクライン (Klein) というのが重病になったので、その引取りのために、彼は遠征隊とともに上流スタンリー・フォールズまで溯航した。クライン、すなわちクルツであり、このときの体験がほとんどそのまま作品化されているという。

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コレット『牝猫』 2007.11.4

今まで持っているのに未読だったこの小説、河合隼雄の『猫だましい』を読んでから、読んでみたくてたまらなくなってしまいました。
若い夫婦と牝猫の三角関係といった感じのお話です。

カミイユの心理状態が、うだうだと語られる事なく、その表情、声、微妙な動き、セリフ等で見事に表現されている所がスゴイです。
序盤から、私はカミイユに同情的に思いました。作者さえも、彼女の描き方がいじわるな気がしてしまいます。
そして、彼女のやってしまった事は、必然であったのでは、とさえ思ってしまいます。
最も罪多き人は、相手のアランでしょう。

彼は一度もカミイユを愛した事もなく、外見の美しさのみに惹かれ安易に結婚し、残酷この上ない生活を強いたのです。
僕にとっては労働でさえあるあれのあとで、なんて、ちと許せない気が・・・。日本人男性にも、こういう人多いようですが・・・気に障ったらすみません。

ついにカミイユが泣きながらこう言うシーンがあります。
「……だってあんたは……あんたはあたしを愛してくれないんですもの?」

これに対して、「そうか、またサハに嫉妬してそう言うんだね?」と言う、どこまでも自分のことがわかっていない鈍感男アラン。(「サハ」は牝猫の名前です)
最後になってもわからぬ鈍感さには呆れ返ります。

猫がカミイユに投げ飛ばされた事を知ったアランはこう思います。
《もし僕がほんとうに深くカミイユを愛しているなら、どんなに激怒したことだろう……》

アランの母親は、カミイユ、猫、それらの状況を、よく理解していたように思います。

見事な心理小説に、コレットという女流作家に興味津々な私なのですが、あとがきの次の文が、コレットの凄さを的確に表現していると思います。

彼女は人物の心理を表現する場合、普通の心理小説においてみられるような概念や意識を通じて表わさず、生態を通じて表現する。例えば、手や腕や脚の動かし方、頭の曲げ具合、頤と肩との関連、眼の動き、更には唇や仕草など身体のあらゆる部分が人物の心理を表現しているのである。

そして、コレットに関しては、以下のように書かれています。

彼女の小説は殆んど悲劇的内容をもっている。結婚や家庭の幸福に恵まれなかった彼女の生活の反映が作品の上にその影を投げているのであろうか? そしてこの悲劇の原因が殆んど男女間の愛にその源を発している。

コレットは幸福について、こんな事を述べています。これを引用して終わりにします。

「人生がもたらすものを身にすけ、壊れた幸福の破片を拾いあつめ、もう一つの幸福をつくるように、それをつぎはぎする。そして、我慢のならないものは力強く押しのけるか、その埋合わせをするように心がける。感情を外に出すことも、無分別も、気をつかいすぎることも、あんまりあくせくするのも、みんな禁物です。何事につけても控え目にすることです。幸福というものは静けさの中によりも、或る不安の形の中に、場合によると困難さの中にあるような気がします」

『牝猫』も紹介されているこの本、おもしろそうです。






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立花隆『解読「地獄の黙示録」』その3 2007.11.3

トレビア的な情報なんぞを。以下引用。

 ウィラードたちがキルゴアの空軍第一騎兵隊と、最初に出会う場面で、上陸したとたんテレビの取材班に出会う。「カメラを見るな! 行け! 戦っているふりをしろ! カメラを気にするな!」と手を振りながら叫びつづけているディレクターが、コッポラ監督自身であることは、あの特徴ある顔ですぐにわかるだろう。
 しかし、フレンチ・プランテーションの場面で、ウィラードたちが食堂に入っていくとき、家長のドマレの前で、ボードレールの詩を暗誦されられている二人の子供たちが、実はコッポラの二人の息子たちであることはあまり知られていない。


へ~~!絶対また観たくなりますね。そして・・・

 この映画はいま見ると、ベトナム戦争を相当に誇張して描いたように見えるかもしれないが、後半の神話的部分をのぞくと、実はほとんどが現実をベースにして描かれている。

という話でして、キルゴア中佐にクリソツな人物もいたらしいし、プレイボーイのバニーガールも事実に近いのだそうです。参考にされたのは、ラクエル・ウェルチの慰問ショー体験記なんですって!
私は何故オリバー・ストーンがあんな事言ってるのか理解できないのですが、『プラトーン』も確かに徹底した妥協のないやり方で撮影されたのでしょう。しかし、それよりも前につくられたこの映画だってですね・・・引用です。

 コッポラは、実感を出すために、酒に酔う場面では、役者に本当に酒を飲ませて酔わせて撮った。

酒に酔ったウィラードが流血するシーンも、本当に酔って流血しちゃったらしく、コッポラは心配して中断して手当てをしようと思ったものの、撮影を続行したのだそうです。

こちらに書いた、インディアンの件にしても、いかに徹底した撮影だったのかがわかります。
膨大な制作費が使われてはいますが、映画会社から全部出てるんじゃないんですぜ? コッポラは私財を投げ打ってこの映画を撮ったんです。
映画の感想に書いたので、繰り返しませんが、実にアーティスティックな、1度観たら1シーン1シーンが長年経っても記憶から離れない、凄い映画だと思います。
しかし、コッポラは、ゴッドファーザーとこれで力を使い果たしたという気もしないでもないんですが・・・何100作そこそこの作品を残すより良いでしょう。
『スター・ウォーズ』もそこを考えつつ観なおしてみたいと思った、次の文で終わりにします。

 ピーター・カーウィーによると、ルーカスが「地獄の黙示録」の監督は断ったものの、そのアイデアを借りて換骨奪胎し、シチュエーションもベトナムのジャングルから宇宙に置きかえて作ったのが、「スター・ウォーズ」(77年) なのだという。つまり、ウィラードたちが乗ったパトロール・ボートがハリソン・フォードたちが乗った宇宙船になったわけだ。帝国はアメリカ、反乱軍はベトコンである。そしてダース・ベーダーがカーツなのである。



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立花隆『解読「地獄の黙示録」』その2 2007.11.1

エレノア夫人の『「地獄の黙示録」撮影全記録 (ノーツ) 』が多く紹介されてしまして、コッポラの苦悩や、どう撮影されていったのかが、実によくわかります。以下引用。

◆七六年九月八日
「今朝、フランシスは四時に起きて、書斎へ下りると脚本の随筆を始めた。六時ごろになると寝室へ上がってきて、わたしを起こした。脚本の結末を書けずにいた理由が、たったいま分かったと言うのだ。もう一年以上もの間、さまざまな結末を考えては、うまく書けずに苦労していた。それが、そんな簡単な話ではないというのに、やっと気づいたのだという。アメリカがベトナムに行った明快な理由がないのと同じことだと。いろんな方向に脚本を進めようとするたびに、彼は脚本の根底を揺るがすような矛盾に突き当たった。それは、この戦争そのものが矛盾に満ちていたからにほかならない。人間には、矛盾がつきものだ。


ラストシーンにはそうとう苦しんだみたいでして、それだけに見事な凄いラストシーンが出来ちゃいましたね。
そして、町田智浩氏に「蛇足」だと言われてしまったフレンチ・プランテーションのシーンについてです。(こちらをご参照に)

 オリジナル版では、最終章は、もっぱら現実を離れて神話化された世界に入りこんでしまっていったが、完全版では、リアルな歴史的事実をちょっとだけ導入することによって、神話的に語られることが、実は、同時代の現実とわかちがたく結びついていることを示している。
 フレンチ・プランテーションの晩餐の食事で長々と語られるインドシナ戦争中のフランスの政治談義も、何やらつまらぬ古くさい話と思われるかもしれないが、あれはフランスのあの時代に仮託されて語られた、六八、九あたりのアメリカ国内における保守派とベトナム反戦派の間の議論と思ってよい。あそこでも、映画は遠い歴史を語っているようでいて、強い同時代性の表現となっている。


そうなんです!!特別完全版で付け足されたシーンは、どれも強く印象に残っています。普通は「蛇足」な事が多いノーカット版、この映画だけは絶対違うでしょう!!

 なんといっても、大きくふやされたのは、フレンチ・プランテーションの場面だ。オリジナル版では、こんな大きなまとまりのある場面を、丸ごと切り捨てていたということそれ自体が大きな驚きだ。

ねーーー!全く同感ですっっ!誰もがこう思うのではないかと思ったですよ。


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ハードロックギタリストで作詞作曲家(まだアマチュアだけどな)吉乃黄櫻の読書ブログ。
60~70年代のロック、サイレント~60年代あたりの映画、フランス・ロシア・ドイツなどの古典文学が好きな懐古趣味人。
西武ライオンズファン。
峰不二子、デボラ・ハリー、ウエンディー・O・ウィリアムスが憧れの人!

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