ドストエフスキー『作家の日記』2巻 その2 2009.4.30
才能の所有者はほとんどすべて多少とも詩人であり、才能に恵まれていれば、建具職人であっても例外ではない。詩情というものは、言ってみれば、あらゆる才能に恵まれた人間の内部に燃えている火なのである。
クローネベルク事件に関しての説明文を引用します。
事件はつぎのようなものである――父親が子供を、七歳になる娘を手ひどく折檻した。起訴状によれば――それ以前にも娘にひどい仕打ちを加えていた。平民出のある婦人は他人事ながら、折檻されている小さな女の子が、(起訴状によると) 十五分もむちの下で「パパ! パパ!」と泣きわめく声には、どうにも我慢がしきれなくなったとのことである。そのむちというのは、ある鑑定人の証言によれば、ただのむちではなく、「シュピッツルーテン*主として軍隊で兵士懲罰のために使用する数本の枝を束ねた長い笞。(訳注より)」つまり、七歳の子供に私用するなどとはもってのほかの代物であることが判明した。とは言うものの、それは証拠物件のひとつとして法廷に並べられていたので、誰でも、当のスパソーヴィッチ氏ですらも、自由にそれを見ることができたのである。それはともかくとして、起訴状は、折檻する前に、せめてこの小枝だけでも折り取るべきだと注意を受けた父親が、「いいや、かえってこのほうが威力があるんだ」と答えたという事実に言及している。それにまた父親自身も罰を加えたあと、気を失ってほとんど倒れそうになったこともよく知られている。
その父親が、敏腕弁護士の力で無罪になったそうです。
最初に引用した文は、弁護士に対して、皮肉的に書かれたことなのですが、私達も普段ニュースを見ながら、弁護士に対して憤るという事が時々あると思うんです。裁かれるべき極悪人を何故助けるんだ?とか。
仕事なら真実など関係なく、そいつを無罪に導くのか?とか。
ここに書かれているドストエフスキーの気持ちは、まさに現代の私たちの気持ちと同じなんです。
私の最も好きな小説『カラマーゾフの兄弟』の中でも、最も好きな登場人物がイワンなのですが、次の文は、そのイワンの「大審問官」を思い起こしました。
小さな子供が、誰にも見られないようにこっそりと隅にかくれ、そこで、小さな手をもみしぼり (そうだ、手をもみしぼるようにしてなのだ、わたしはそれをこの目で見たことがある) ――そして、ちっちゃなこぶしで胸を叩きながら、自分でもなにをしているのか分からないままに、ただ自分が愛されていないことを、いやというほど身にしみて感じながら泣いているところを、あなたはご覧になったことがおありだろうか?
そして、この父親を無罪にする為に、七歳の女の子を、肉体的にあれほど痛めつけられた女の子を、こうまで精神的に理不尽に痛めつけて許されるのだろうか?と、次の文など読んでいて非常に憤ったのでありました。
どうか、スパソーヴィッチ氏よ、もういい加減にしていただきたい、このような小さな女の子について、彼女は金に手をかけようとしたなどと、はたして言えるものだろうか? こうした言いまわしとそれに付随する観念は、金とはなんであるかということとその使用法を心得ている、大人の泥棒に対してのみ適用できるものなのだ。第一こんな小さな女の子がかりにお金を取ったにしても、それはまだ決して窃盗などと断定できるものではなく、干したあんずの実と同様に、単なる子供のいたずらにすぎない。なぜならば金とはどんなものであるのか、彼女にはぜんぜん分かっていないからである。それなのにあなたは、今度は遠からず銀行紙幣に手を出すに相違ないと、われわれに説教し、また「これは国家に対する脅威である!」と絶叫している。となると、このようないたずらに対して、この少女が受けたようなひどい折檻は正当であり申し開きの立つものであるという考えを、はたして許すことができるだろうか、はたしてそのままにしておいてよいものであろうか。しかも彼女は金を探りもしなければ、金などはぜんぜん取りもしなかった。彼女はただ金のはいっていたトランクの中を探してみて、編み針を一本折っただけであり、そのほかにはなにひとつ取らなかったのである。それに金を盗む必要などぜんぜんなかった。とんでもない言いがかりだ。金を持ってアメリカへでも逃げるつもりだった、それでなければ鉄道の利権でも手に入れようとしたと言うのだろうか? あなたは銀行紙幣のことなどに言及して、「砂糖から銀行紙幣への道は遠くない」などと言っているのだから、鉄道の利権と言われてもなにもいまさらひるむことはないだろう?
つづきます。
ドストエフスキー 作家の日記
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