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ROCKIN'ON JAPAN特別号 忌野清志郎1951ー2009 その5 2009.7.27

◆忌野清志郎インタヴュー その4『Memphis』◆



RC解散後、リズム&ブルースの聖地メンフィスで、敬愛するスティーブ・クロッパー、ブッカーTらと作ったソロ第2弾『Memphis』の時の話です。

「いや、つうかね、初心に返ったっつうかね。自分もこうずっとやってきて、プロになっちゃってたなあっていうのを気付かせてくれたような感じがしましたね。別に上手くねえんだよ、あいつら。ひとりひとりは。何つうのかね、すごい不器用だし。でも自分のやることっていうのもちゃんとわかってるっていうか。日本のスタジオミュージシャンみたいに何でも弾けるとかね、そういうのは絶対ないね」
●ミュージシャンの原点確認みたいな、そういう体験?
「原点確認みたいな感じですかねえ。それであと、テイクを選ぶ時に何を一番大事にしてるかっていうと、全体のグルーヴ、それだけなんですよ。だからミストーンだの何だの、そんなのは別に。そこだけやり直せばいいわけだし」
●日本人はそういうの異常に気にするけどね。
「うん。音程がどうのとか、そんなのは全然気にしてない」


次回もキヨシローのインタヴューです!



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ROCKIN'ON JAPAN特別号 忌野清志郎1951ー2009 その4 2009.7.22

◆忌野清志郎インタヴュー その3『スローバラード』◆




NHK-FMのキヨシロー追悼番組で、渋谷陽一が歌詞を読んだり説明したりしていたのが2ちゃんねるでは不評だったんですが (私は良いと思いました)、このインタヴューを読んでいても、歌詞に対する渋谷氏の思い入れがよくわかります。引用です。

●こういう具体的な体験をそのまま書くっていうのが忌野さんは多いですけど、それはもう自分のスタイルって感じですか。
「……うん……そうだねえ、まあスタイルんなっちゃったのかもしんないけど。でも、作詞家みたいにさ、なんかたわごとを並べたってしょうがないでしょう!(笑)。何だか見たこともねえようなこと書いたってしょうがねえって思うんだよね」
●はははは。だけどやっぱり《市営グランドの駐車場》っていうのは日本のポップ・ミュージックでいまだかつて出てきたことのないようなフレーズじゃない?
「うん」
●この辺が清志郎の天才たるとこなんだけど。これは意図的にじゃなくて自然に出てきちゃったわけ?
「そうですね。やっぱ事実に基づいたために出てきたの」
●清志郎の場合は「あ、これはねえなあ」とかっていう感触もないんだ? 普通に?
「うん。いやあ、いいなあと思った。いい言葉だなあと」
●ははは。やっぱりすごいよねえ。だから結局この《市営グランドの駐車場》みたいなのがその後いろんな形で真似されるようになるよね。


いやー強烈でしたよね、このフレーズ。1度聴いたら忘れない。
まだまだ続いちゃいます。



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ROCKIN'ON JAPAN特別号 忌野清志郎1951ー2009 その3 2009.7.21

◆忌野清志郎インタヴュー その2◆
またまたインタヴューの引用から。

●メンツが揃って、音を出そうという時に、いまのRCのスタイルというのはある程度出来てたんですか。
「まあ、基本は出来ていたよね。やり始めた頃、チャボの家でキッスの武道館コンサートをテレビで見てさ。感激したことがあったよ。これだ、と思ってさ。『これでいくべえ、リズムも分かりやすいや』なんて言ってさ。『これくらいなら弾けるだろう』なんて(笑)」
●ストーンズを研究したというのはどういうことだったんですか。
「サウンドも勿論だけど、内容ももっと俗っぽい、女のことだとか車の話だとか、そういうものの方が、心情的なことや感覚的なこと歌ってるより全然分かりやすいと思ったんですよね」
●ひょっとすると、俺は資本の側に身を売ったんではないだろうかとか思いませんでしたか。
「いや、別に売ったっていいと思ったしさ(笑)。あと、松山千春とかも売れ出した頃で、スタッフなんかはああいう風ないい詞を書かなければダメだ、とか言ってたからさ、研究したこともあったよ。あとグレープとかもね」
●勉強になりました?
「いや、出来なかった(笑)。頑張ったんだけど、出来なかった(笑)。もう自分のボキャブラリーが本当に少ないと痛感したもんね。あいつらみたいに難しい言葉を知らないんだもん。だから開き直るしかなくてさ。《おいらは~だぜ》とかそういう世界に行くしかなかったんですよね(笑)」
●最終的にはそれの方がずっと高級な詞だったわけですけどね。


いやーこれまたうれちーのなんのって!!
年がバレるのもおかまいナシで言っちゃいますが (ってか度々発言してますが)、私がロックを聴き始めたきっかけとなったのが、まさにKISSの武道館コンサートをテレビで見てだったんです!!
めちゃデカい衝撃でした。
もうちょい上の世代だと、KISSなんてくだらね~とか思ってたROCKファンが多いんではないかと思うんですが、KISSの良い所のひとつは子供にもわかるわかりやすさだと思うんです。
だからガキだった自分は、すんなりはまり込んじまったんですね。
そして、エースのヘタウマ的、曲にめちゃピッタシな歌えちゃうギターソロとか、その影響は後々の自分の曲にもGソロにもずっと続いています。



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ROCKIN'ON JAPAN特別号 忌野清志郎1951ー2009 その2 2009.7.19

◆忌野清志郎インタヴュー◆



キヨシローのインタヴューから引用していきますが、『シングル・マン』が売れなくてしばらくして仕事がまったくない時期の話です。

●その頃ですか、割と本に向かって、ヘッセとか読んだというのは?
「そうですね。あと太宰治とかスタインベックとかね。あとはアントナン・アルトーとか読んだんだよ、悪いけど(笑)」
●何故急にそういう風になったんですかね。やっぱり圧倒的に暇であったとか(笑)。
「そうでしょうね。あとね、文学というか小説というか、そういうのに何が書いてあるのか知りたくなったんだよね。何を題材にして、こんなにたくさん字が書けるんだろうと思ってさ(笑)」
●いざ読んでみたらどうでした?
「いや没頭しました。ヘッセが一番良かったね」
●どういう所が良かったの?
「いや、自分のことのような気がしたよ。彼の小説は何を読んでも一貫したものがあるんだよね。主人公がさ、やっぱり世の中に理解されずにいるんだよ。そいつはすごい才能を持っててさ、神に近づいてるわけ。でも全然理解されなくて、まあ最後は悲しく死んでいくとかね(笑)。そういうタイプの奴なんだけど。そういうのに憧れてたんじゃないかな、俺は」


いやーめちゃめちゃ嬉しかった!!「自分のことのような気がした」って、私がヘッセを読んだ時と全く同じです。
なんせ私のこのハンドルネームはヘッセの『デミアン』から来ている訳でして。
ま、ヘッセに共感した私も、やはり自分に自信があったっつー事になるんですかね。(ノ∀\*)キャ
今こんな表紙なんだ~

 




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ROCKIN'ON JAPAN特別号 忌野清志郎1951ー2009 その1 2009.7.18



いやーもう、こんっっな貴重なもんが読めるファンは幸せだと思いましたぜ。
次々と有名人が追悼文を発表する中、キヨシローにあまりに近い位置にいた人達は、とても書けるわけがないだろうと思いつつ、HPをマメにチェックしたりしてたんですが、誰もがいちばん聞きたいのがチャボの声だった訳で、このインタビューはほんっっとに貴重だし、渋谷陽一でなければ絶対無理でしたよね。
そんなチャボの実に実に素直な声が聞けちゃったり、昔のキヨシローのインタビューの、これまたもうすんごい素直な事!こんな事まで言っちゃってマズイんでないの~?ってな事もいっぱーいしゃべってます。
ドラッグの話とか、ええんかい!とか。便利女のあたりは工エエェェ(´д`)ェェエエ工 って感じもあったり。
まずは前書きである「清志郎が教えてくれた自明の事」より引用です。

日本のロックは日本語で歌われるべきである、そんな事は自明の事だ。しかし当時は、大マジに日本語のロックは可能なのか、という論議が当たり前のように行われていた。30年経過すれば明らかになる事を、彼は当時から分かっていた。ロッキング・オンに掲載されたインタヴューのタイトルは「ビートにノル日本語は必ずあります!」だった。そして自らの手によって、日本語のビートと、ロックのビートを合体させたスタイルを作りあげていったのである。ロックにタブーはない、それも清志郎にとっては自明の事だった。だから先生に対する肯定的な思いも歌えたし、"君が代" のカヴァーも歌えたのである。

私がココに書いたキヨシローに驚いたことのひとつが、上の引用文に書かれている訳です。
私事になりますが、自分のバンドCARMILLAで、全曲英語でやっていたのを、再結成して活動していた時に1曲日本語で歌詞・歌メロを新たにつくった曲があったんですが、物凄い苦労してつくっただけあって、かなりの愛着のある曲に仕上がりました。
これを再び英語に戻されちゃうかもしれないっつー危機感があったんで、そんな事が元になって崩壊しちゃったんですよね。
変えるとは言ってないと言われても、いまだに全曲英語でやりたいメンバーがいて、そうほのめかすような発言があったのは確かなので、物凄い抵抗感がありました。
そんなゴタゴタの最中にキヨシローが亡くなり、めちゃ凄いタイミングで改めてRCサクセションを聴くことで、歌詞についての自分の考えを肯定出来る事が出来たんです。
キヨシローの発言ひとつひとつに、ああ、やはり自分が正しかった!と思えるところがいっぱいありました。
次回につづきます。
マノウォーも日本語で歌ってるぜ!



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落合尚之『罪と罰』5巻 2009.7.17

 
全巻セット!ご購入は当店で!6月30日23:59まで全商品 送料無料です!【漫画】罪と罰(1-5巻 最新巻)

4巻までの感想はこちらです。
4巻読了から5巻を読むまで間があいてしまったのもあるかもしれないんですが、う~~ん、5巻はイマイチな感じでした。^^;
とにかく何が嫌って、マルメラードフ。
ソーニャもなんか違うし、話の展開も、かなり嫌な感じでした。
うーーん10年後ぐらいに期待の漫画家かな。

以下のラズミーヒンこと矢住のセリフは確信ついていて良かったです。これを引用してサラッと終わります。^^;
句読点テキトーに入れちゃいます。

「なあ、ミロク、この世の不幸をひとりでしょいこんだような顔をして…自分を憐れむのが、そんなに楽しいか?
お前みたいな秀才によくありがちな勘違いだ。
小さな悩みをああでもないこうでもないって、こねくり回すのを偉いことだとでも思ってるんだろう。
繊細で誠実で、ちょっと陰のある若き哲学者だ。
そんな自分がかっこいいって心のどこかで酔ってるんだ。
バカバカしい!そんなのは昔の文学者の猿真似じゃないか!
他人がみんなバカに見えるのか。
でもひとりで閉じこもって、浮世離れした空想にふけっても、そんなことは何の身にもならないぞ。
世の中のことなんか何も知らないクセに、他人を見下して高みに立ったつもりでいるなんて……
そういう奴こそ本当の大バカだ」


拍手!



落合尚之 罪と罰

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テーマ : 漫画の感想
ジャンル : 本・雑誌

清水正『手塚治虫版『罪と罰』を読む』その5 2009.7.14

まずは引用から。

 106[113]、107[114]、108頁[115]の三頁にわたってランプの火に飛び込んでいくガの映像化は、漫画ならではの効果を発揮している。ガを擬人化し、〈艶めかしい女性〉(踊り子) として表現したことと、ランプの炎を〈誘惑する男〉(ポルフィーリイ判事) として描いたことは、ラスコルニコフと判事の〈戦い〉を実に象徴的に描いていて効果的である。

と評されているのですが、私には実に不可解なシーンでした。
犯人が犯行現場に吸い寄せられていくのとは、意味あいが違ってしまうのではないか、と。
これは悪者につかまるヒロインってな感じに描かれていて、女性に擬人化された蝶は、とても犯罪者には思えず、これでいくと、ラスコーリニコフはヒーロー (善人) で、ポルフィーリイが悪者のようです。
それからこの、スビドリガイロフとの出会いのシーン。以下引用です。

この下水の地下道で彼ら二人は初めて言葉を交わすことになった。この出会いの場所は極めて暗示的だ。つまり〈地下道〉はラスコルニコフの無意識層を意味しており、彼自身が未だ明晰に認識できない闇の心理領域を示している。

この地下道のシーンはもしかしたら、単に『第三の男』を見て影響され、カッコイイと思って入れたかったのかも、なんて事を思いました。(『第三の男』の感想書いてます。)



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テーマ : エッセイ/随筆
ジャンル : 本・雑誌

清水正『手塚治虫版『罪と罰』を読む』その4 2009.7.12

実におもしろいと思った箇所を。
同じ本を読んで印象に残る箇所、重点をおきたい箇所は人それぞれですが、にゃるほど手塚治虫はそこですか。
かな~~り短い漫画化ですから、とんでもなく重要なところまで省略しちゃってる訳ですが、そんな中これだけの頁をさいているのですから、そうなのでしょう。
以下引用です。

原作『罪と罰』を読んだ者の多くは、ラスコーリニコフの非凡人の思想や、その犯罪に関心を持つ。若い時に『罪と罰』を読んで、マルメラードフの通夜の場面に多大の興味と関心を寄せた者は少ないだろう。日本の小説家や文芸評論家にしても、ドストエフスキーの文学を観念的、思想的に深刻に受け止め、人物たちと議論するようなかたちでエッセイを書く者が大半であって、通夜の場面のドンチャン騒ぎなどに、敢えて言及する者などはいなかった。手塚治虫が『罪と罰』を漫画化するにあたって、ルージンとラスコーリニコフ一家の会食の場面や、マルメラードフの通夜の場面に多くの頁を費やしたことは注目に値する。ドストエフスキーの文学を深刻に受け止めてきた小説家や批評家が見落としてしまった、ドストエフスキー文学における <笑い> の側面を手塚治虫は漫画化によって鋭くクローズアップして見せたとも言えようか。

まあ、もしかしたら、自分やお友達を登場させるのにちょうど良い場面だったからかもしれないとも思うんですが。
ちなみに手塚版『罪と罰』のあとがきに、以下のように書かれています。

 ソーニャの家でのランチキ騒ぎに招かれるアパートの住人たちは、福井英一、馬場のぼる、山根一二三、それにぼくなど、当時 (昭和三十年以前) の児童漫画家メンバーの特別出演です。みんな、よく新宿や池袋、大塚あたりで飲んだくれていたものです。なつかしい仲間です。

多分、次回で最終回です。



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テーマ : エッセイ/随筆
ジャンル : 本・雑誌

清水正『手塚治虫版『罪と罰』を読む』その3 2009.7.9

清水さんの素晴らしい所は、実に客観的な見方が出来る点です。
アリョーナ婆さんみたいな、ほとんど顧みられないけど考えてみりゃあ大変気の毒な脇役にまでスポットをあてているんです。
彼女が金貸しばーさんになるに至るまでの彼女の人生はどんなものだったのだろう、と考え巡らすことが出来る点が素晴らしいんです。
また、リザヴェータに関しても謎がいっぱいでして、ドストエフスキーが書いていない部分の謎って、すんごい多いんだ、と気付かされます。
以下引用です。

ラスコーリニコフは老婆アリョーナ・イワーノヴナに対して、愛のまなざしも向けることは微塵もなかった。アリョーナ・イワーノヴナにはアリョーナ・イワーノヴナの人生があり喜怒哀楽があったはずだが、そういったことに対してラスコーリニコフは何の想像力も働かせることはなかった。ついでに殺してしまったリザヴェータに関しても同じである。 ―中略― 作者がその子どもたちに関して何ら具体的に書いていないにせよ、彼女に子どもがいたことは事実である。ラスコーリニコフはリザヴェータを殺した。リザヴェータの子どもたちにとってラスコーリニコフは鬼畜でしかあるまい。―中略― こんな男が、こんな殺人者がルージンを卑劣漢と言って非難している。このことを読者は決して忘れてはいけない。

こういう見方というのは、普段から大切なものだと私は思うんです。
一方的な視点でしか語られないマスコミなどにコロッと騙される人が多いのは、多方面から、客観的に物事を見るという事が出来ていないからではないかと思うんです。
入ってくる言葉や映像等を表面的に、ろくに考えもせずに受け入れるだけじゃ、簡単に間違った方向に流れていってしまうと思うんです。

*清水さんが、このブログを紹介してくださいました!こちらです。ありがとうございます。<(_ _)>
清水さんの著書の感想こちらからどうぞ。最近のは、まだリンク貼れてないんですが。時間のある時に貼っておきます。
ドストエフスキー関連はこちらです。



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テーマ : エッセイ/随筆
ジャンル : 本・雑誌

清水正『手塚治虫版『罪と罰』を読む』その2 2009.7.8

この本でもルージンについて多く言及されています。以下引用です。

 おまえの前にラスコーリニコフとルージンが現れ、そのうちの一人を友人として選べと言われたとき、おまえはいったい誰を選ぶか、こんな問いを自らに発してしばし沈黙する。ルージンも嫌だがラスコーリニコフはもっと嫌だという感じがする。

いやはや、全く同感です。
ラスコーリニコフと友達になりたいか、他の読者に聞いてみたいです。
それにしても、ルージンを腹の出たオッサンに描いている手塚治虫、よくわからんです。ポルフィーリイに関しては、その気持ちはわかる、と思うんですけど。
以下の文も全く同感。

ラスコーリニコフは経済的に自立できていない子どもであり、年金生活者の母親から仕送ってもらわなければ屋根裏部屋の生活さえおぼつかない状況に置かれている。彼は屈辱恥辱を生きてマルメラードフのような道化になることはできない。家庭教師や翻訳のアルバイトで学費を稼ぎ学生生活を続けることもできない。ナポレオンのような青銅でできた英雄になることもできない。母と妹の打算に乗ってルージンをたてることもできない。要するに彼は生活者としては徹底的な落伍者である。よくもこういった男にラズミーヒンのような友達ができたものだと思う。

もう、ほんと、タダのだめ男なんすよね、ラスコーリニコフって。
仕事して稼ぐことも出来ないくせして、何人を見下してんの?カッコつけてんじゃねーよっつー感じ。
こんな男にラズミーヒンのような友達は勿体ないです。しかも感じ悪いですからね。何故ラズミーヒンが、こうまで世話を焼き親切にするのか謎です。

つづきます。

清水正研究室 on the web



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テーマ : エッセイ/随筆
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清水正『手塚治虫版『罪と罰』を読む』その1 2009.7.5



手塚治虫映画『メトロポリス』『「実験アニメーション」全14話 』もご覧いただきたいのですが、まずは引用です。

 手塚治虫が日本の漫画界に与えた影響はたいへんなもので、そのことに関して異論をさしはさむ者はおそらく一人もいないだろう。しかし手塚治虫が天才だという説に関しては、わたしはいつも「そうかな」という思いをぬぐいきれないでいる。

それから、以下のようにも書かれています。

 わたしがつげ義春の「ガロ」時代の作品を評価するのは、それらの作品が読者に対して媚びていないことである。つげ義春「ガロ」時代の漫画作品によって自己表現の立場を貫いている。貸し本屋時代のつげ義春は生活費を稼ぐためにせっせと漫画を描いたが、もちろんその当時の作品は <読者> を想定してのものである。読者を想定しない漫画家はいないだろうが、その想定された <読者>の質が貸し本屋時代と「ガロ」時代ではまったく異なっている。後者において <読者> は限りなく作者本人と化している。何よりもまず優先されるのは表現者としての自分自身の満足度である。作品を完成させるにあたって、売れ行きの心配とか、編集者や発行者の顔が浮かんでくるようでは駄目だということである。

まあ売れなきゃ連載も終わっちゃって仕事もなくなるので、どうなんだろって部分もありますが、つげ義春が媚びてないという所は同感です。
ねじ式
紅い花

手塚治虫に戻りまして、母が以前「お利口さんが頭で考えてつくってる」と言ったのにも、全く同感でして、好きな作品もあるし、ブラックジャックとか医者系のものは、流石に上手いと思うんですが、赤塚不二夫のような天才性はないんじゃないか、と思います。(コレも母の発言に同意したものなんですが)
そして今回、清水さんのこの本を読んでいる途中で、手塚版『罪と罰』も再読しました。
この本で紹介されている部分も、ほとんどそうだったんですが、思ったのは、何故こうも寒いギャグを連発してるんだ、という事でして、清水さん曰くどんな深刻な場面でも、その場面全体をおちょくらずにはおれない、いわば <絶対> を不断に相対化せずにはおれない傾向で、ふざけるべきでない場面でことごとくふざけているという指摘は大変おもしろく、そして、そのギャグがなんだかことごとくつまらなかったんです。
単に自分の感覚と合わないのかなあ…笑える方おられます?
例えば、以下引用です。

 金時計を手に入れ有頂天になって喜んでいるニコライのセリフは「ニコニコ」「ありがたし、かたじけない」「これを売れば、たくあんいりのカレーライスがたべられる」「待てよ、あにきが」「おれにもわけまえをよこせというに決まってら」「といったら、おらァ、おこって、このやろう、おらんだいっ……」「オランダっ、ドイツっ、ベルギーっ」である。

おもしろいですか?コレ。子供向けに書いたっつーことなんで、子供が読めば、おもしろいんでしょうか?
次回へつづきます。

「映画化関連原作特集」特集
「手塚治虫」特集
「藤子・F・不二雄大全集」特集




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清水正『ドストエフスキー『罪と罰』の世界』その7 2009.7.3

脇役のひとりひとりにスポットを当てている所が、清水さんの見事なところでして、ルージン論とかラズミーヒン論なんて、今までなかったのではないでしょうか。
ラズミーヒン論を読んで、『失われた時を求めて』(感想こちら) の主人公とサン=ルーとの関係を想起しました。
被害者である金貸し婆のアリョーナの、そうなるまでの人生を考えてみたり、忘れているような人物も出てきます。
そして、ラスコーリニコフってのは、こんなヤツだ、と示してくれていると同時に、その家族、母親プリヘーリヤとドゥーニャの正体も暴いてるんですね。
いやはや実に深いっす。にゃるほど!やはり家族だなあ、と思いました。
ドゥーニャもラスコーリニコフと同じく、善人面してルージンに対して、すごく失礼な事してるんですよね。母親も同じく。自覚がないっつーのは、たちが悪いっす。
さらにスヴィドリガイロフの奥さんマルファや、ソーニャの継母カチェリーナ (このキャラかなり好きです) にスポットを当てている所も嬉しいです。



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清水正『ドストエフスキー『罪と罰』の世界』その6 2009.7.1

清水さんの本には、共感する事が実に多いのですが、ココなんてまさに、全く同じことを思いました!

 私が最初に疑問を感じたのは、ラスコーリニコフのように自意識過剰の青年が、殺人などという大胆な一義的行動を起こせるだろうか? ということであった。しかし、この行動がなければ『罪と罰』という物語は成立しなかったはずである。

それから、本気で調べてみなければ、と思っている「分離派」!
「第二十七章 帝王の被袍 (道化) 」はポルフィーリイです。以下引用です。

ピョートル大帝によって築かれたペテルブルグは、同時にロシヤ正教の "光" に充たされた世界でもあったが、ポルフィーリイは、その "光" の届かぬ "闇" の領域の統治者でもあるということである。それでは、光=ロシヤ正教に対する "闇" の領域とは何であろうか。言うまでもなくそれは "分離派" (ラスコール) である。ソーニャとリザヴェータが分離派の一派である鞭身派に属し、老婆殺しの嫌疑をかけられたペンキ屋のミコールカが、これまた分離派の一派、逃亡派に属していたとなれば、名前自体が分離派教徒 (ラスコーリニク) であるラスコーリニコフをはじめ、主要人物の大半が "闇" の領域 (分離派) に関係していたことになる。

次の章が、ぬわんと「ポルフィーリイと『オルフェ』」!
こりゃまた『オルフェ』見なきゃですね。

 

その次の第二十九章が「おしまいになってしまった男の信仰」で、ポルフィーリイが続きます。
この「自分はおしまいになってしまった人間」のセリフの意味が、いまいちわかってなかったんですが、清水さんの本を読んで、スヴィドリガイロフ=幽霊と共に、ちょびっとわかったような気も…。
とは言え、また『罪と罰』を再読してみなければ、よくわからない訳でして。もー大変。
以下の文は、全くその通りだと思いました。

ドストエフスキーは「不信と懐疑の時代の子」であると同時に、熱烈に神の存在を希求して止まなかった芸術家である。いわば彼は救いがたいほど深く "分裂" したディオニュソス的芸術家であった。

おそらく、この分裂にヘッセは強く共感したのではないか、と思います。
次回で終わりです。(多分)



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吉乃黄櫻

Author:吉乃黄櫻
ハードロックギタリストで作詞作曲家(まだアマチュアだけどな)吉乃黄櫻の読書ブログ。
60~70年代のロック、サイレント~60年代あたりの映画、フランス・ロシア・ドイツなどの古典文学が好きな懐古趣味人。
西武ライオンズファン。
峰不二子、デボラ・ハリー、ウエンディー・O・ウィリアムスが憧れの人!

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