◆ドストエフスキーの性質・性格◆
ドストエフスキー作品の登場人物の特徴として「過剰である」と言う事がまず言えると思うのですが、これは、おそらく、ドストエフスキーの癲癇性の性格と密接に結び付いているのでしょう。
以下p.89より引用。
---前略---弟アンドレイが言うように「なにをやらせても、ほんものの火のように燃えあがる魂の持主」であったのだ。適当にとか、我身を傷つけない程度になどという生温い生き方は彼にはできない。彼はたとえ自分が火傷を負っても、熱くならざるをえなかったのだ。金を使えば、それは浪費となり、ルーレットにふければ、とことんまで賭けてすっからかんになり、ロシア民衆を擁護すれば、ついには極端な皇帝崇拝になり、信仰に走れば、ロシア正教の正統的信仰を超えた熱烈なものとなり、反対に無信仰を研究すれば、イヴァン・カラマーゾフの造形にまでいたる無信仰の極限を見ざるをえない。
あまりにも強く現実に密着した生活をおくる反面、現実から強烈な力で離脱したいとはかる。この接点にあるのが、彼の癲癇であり、文学創作なのである。カラマーゾフの兄弟(上巻)改版カラマーゾフの兄弟(中巻)47刷改版カラマーゾフの兄弟(下巻)48刷改版謎とき『カラマーゾフの兄弟』作者と作中人物について、p.124より引用。
ブールソフは、ドストエフスキイが自伝的作家であること、主人公たちがすべて作者自身に起源をもっていることを指摘している。この点はトルストイが作中のある人物にのみ自分を投射したのとは大いに異なるという。
たしかにドストエフスキイの小説を読んでいるといたるところ他の作家には断じてあらわれぬ風変りな人物が次々と登場する。また多くの作品をくらべてみると、同じような性格や思想を持った人間が再三登場し、<<ドストエフスキイ的>> というような形容詞をつけたくなることも事実である。人物がドストエフスキイ的であるということは、作者が自分をモデルにして作中人物に分与したこと、つまりすべての人物が作者の分身であることを推測せしめる。そして
ドストエフスキイの作中人物は多少とも作者に似ているけれども、作者にそっくりな人物は一人もいないとも書かれています。
ジイドは、ドストエフスキーは自分の著作の登場人物のひとりびとりのなかに、われを失って書いているからこそ、それらひとりびとりの中に彼が見出されると言っています。
夢中で他人を描こうとしたら、自分を描いていた、という訳です。
まさに加賀乙彦にしか書けないドストエフスキー論なのでありました。
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