『失われた時を求めて8 第四篇 ソドムとゴモラ?』その4 2008.11.11
今回は、にゃるほどわかるかも~と思った文を引用です。
結構良い文なので、どこまでにしたら良いかが難しいところでした。なので、ちと長いですが…。
私はどうやら鉄道を使ってお伽噺のような旅をするのが好きだったために、自動車を前にしたときのアルベルチーヌの喜びようを共有できなかったらしい。自動車はたとえ病人であろうとも行きたいところに連れてゆくし、また行く先を――それまでの私が考えていたように――個性的でかけ替えのない不動の美の神髄と見なすのを妨げるからだ。そしてまた自動車は、かつて私がパリからバルベックへ行ったときに利用した鉄道とちがって、行く先を、ふだんの生活に起こる偶然事と切り離された一つの目標にしてはくれなかった。かつては汽車で出発するとき、行く先はほとんど観念的な目標だったが、着いたところはだれも住む者のないただっぴろい住居で、ただ町の名前だけが掲げられている場所、つまり駅だったから、目標はそこでもやはり観念的なものにすぎず、ただ駅が一つの具体化であるように、いよいよそこに近づけることを約束するもののように思われた。汽車はこんなふうに私たちを、お伽の国に連れてゆくように一つの町へ運んで行き、私たちはまず、劇場の観客がさまざまな幻想をくり広げるように、地名の要約する全体のなかで町を思い描くのだが、自動車はそうでない。自動車は私たちを通りの楽屋裏にまで侵入され、立ちどまってそこに住んでいる人に道をたずねる。
にゃるほど。確かに汽車というのは、車と比べて遥かにロマンティックなものかもしれません。
私も、目的地に時間をかけて辿り着くのが、わりと好きです。飛行機で1時間半・・・とかってのよりも。
奄美大島まで船で往復した経験があるですよ!汽車と違って景色はほとんど一緒ですが。(笑)
決まった仕事があると、日数が限られて、なかなかそうも行かないんですけどね。あの時はちょうど派遣のくぎりだったので出来たのでした。
この巻の感想、多分次回で終わりです。
失われた時を求めて
クリックよろぴくー。
結構良い文なので、どこまでにしたら良いかが難しいところでした。なので、ちと長いですが…。
私はどうやら鉄道を使ってお伽噺のような旅をするのが好きだったために、自動車を前にしたときのアルベルチーヌの喜びようを共有できなかったらしい。自動車はたとえ病人であろうとも行きたいところに連れてゆくし、また行く先を――それまでの私が考えていたように――個性的でかけ替えのない不動の美の神髄と見なすのを妨げるからだ。そしてまた自動車は、かつて私がパリからバルベックへ行ったときに利用した鉄道とちがって、行く先を、ふだんの生活に起こる偶然事と切り離された一つの目標にしてはくれなかった。かつては汽車で出発するとき、行く先はほとんど観念的な目標だったが、着いたところはだれも住む者のないただっぴろい住居で、ただ町の名前だけが掲げられている場所、つまり駅だったから、目標はそこでもやはり観念的なものにすぎず、ただ駅が一つの具体化であるように、いよいよそこに近づけることを約束するもののように思われた。汽車はこんなふうに私たちを、お伽の国に連れてゆくように一つの町へ運んで行き、私たちはまず、劇場の観客がさまざまな幻想をくり広げるように、地名の要約する全体のなかで町を思い描くのだが、自動車はそうでない。自動車は私たちを通りの楽屋裏にまで侵入され、立ちどまってそこに住んでいる人に道をたずねる。
にゃるほど。確かに汽車というのは、車と比べて遥かにロマンティックなものかもしれません。
私も、目的地に時間をかけて辿り着くのが、わりと好きです。飛行機で1時間半・・・とかってのよりも。
奄美大島まで船で往復した経験があるですよ!汽車と違って景色はほとんど一緒ですが。(笑)
決まった仕事があると、日数が限られて、なかなかそうも行かないんですけどね。あの時はちょうど派遣のくぎりだったので出来たのでした。
この巻の感想、多分次回で終わりです。
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